"氷室鐘の魅力" by 火鳥

とある物凄く気に食わない男から、好きな人の印象を尋ねられたことがある。
「大人っぽくて、たまにドジで、いつも笑顔が柔らかくて、それがすごく魅力的だ」
そのとき、俺はそう答えたはずだ。

「やあ、美綴弟。元気かね？」
「うっ……」
嫌な人と会ってしまった。
いや、同じ学校である以上、廊下ですれ違うことは珍しくはないだろう。
こうやって声をかけてくるのも、顔見知りなのだから当然のことだ。
しかし、だからといって、こういう不意打ちは――
「人の顔を見て呻き声一つとは、また随分なご挨拶だな」
にやり。そういう擬音が良く似合う笑みを向けてくる。
この先輩のこういう表情は、笑顔に違いないのに不思議と冷たい印象しか与えない。
「……おはようございます、氷室先輩」
「おはよう、というのはこの時間帯にはそぐわないな。こんにちは、少年」
「用事は挨拶の指導だけっすか？」
わずかに背を向けたところを、
「いや待ちたまえ」
腕をとられてぐいっと引き寄せられる。重みのある感触が腕に当たる。
……いつものパターン。
これをやられると逆らえない。なにか条件反射みたいになっている。
「氷室先ぱ――」
「わざわざ君を探していたんだ。逃げられてはかなわない」
高くも低くもない、けれど心地よく響く声。
ほんのわずか弾んでいるように聞こえるのは、きっと俺がそう思いたいからだ。
氷室先輩はそのまま俺を引き摺るようにして歩き出した。

先輩に腕を取られたまま、二人して廊下を歩く。
そろそろ人通りの多い場所に差しかかる、というか今でも道行く生徒の視線が痛い。
けれど氷室先輩の表情は揺らがない。
あんまりだ。これじゃ一方的に晒し首じゃないか。
「そろそろ離してください氷室先輩」
「離したら逃げるだろう」
「逃げませんって」
氷室先輩は、つと真顔になって、
「……そんなに心地が悪いかね？　……その、なんだ、わりと自信はあるのだが」
「……は？」
彼女にしては珍しく、赤い頬。
その言わんとするところを理解して、思わず視線が少し下に――
……そりゃ、間桐主将と比較しうるという時点で既に立派なモノであるというか、いや別に間桐主将の胸とか生で見たことないし触ったことないし比べたこともないけど、というか違うだろそうじゃなくてああもう――
「ふむ。特に不満を覚えているわけではないのか。少年もまさに少年だったのだな。いや失礼」
先輩はすでに冷静さを取り戻し、いつもの氷の声だった。
「……アンタ、本当、可愛げがないよな。ねーちゃんみたいだ」
赤くなっているのを誤魔化したくて、俺はそっぽを向いてしまう。
だが、それも見透かされているのだろう。
「美綴嬢にそのセリフを伝えていいのかね？」
「……すみませんでした」

それからしばらくは無言で歩いた。
俺の腕は抱きかかえられたままだ。
こうして校内を練り歩いていると、本当に晒されている気がしてくる。
「……いいかげん、どこに行くか聞いていいですか」
「？　これまでも禁止していた覚えはないのだが。……なに、陸上部の顧問に呼ばれているだけだ。どうやら新しく使う器具を運ばねばならないらしく、一人か二人、協力者を見繕ってこいと」
「雑用っすか」
「端的に言えばその通りだ」
氷室先輩は小さく頷いた。
「衛宮先輩なら、喜んでやってくれると思いますけど」
「もちろん最初はそう考えていたのだが、まあ彼は別に用事があるらしくてな」
「……すでに頼ってたのかよ」
なんだかおもしろくない。
嫉妬、……だろうか。かっこわりぃ。
「まあ、君としては不愉快かもしれんがね」
氷室先輩が笑う。
俺があの男に抱いている感情を知っているからこその笑みだろう。

――最近は、間桐主将のことをあまり考えてない。

俺はまた無言に戻る。
昼休みの喧騒が妙にはっきり聞こえる気がする。
視界の端をちらちらと動く生徒たち、ひそひそとした声、不躾な視線。
そうしてふと。
いまさらながらに先輩と腕を組んでいることを意識する。
その横顔をじっと見つめてしまっている自分を意識する。
艶やかな唇から吐き出される密やかな息遣いを意識する。
わずかに漂うたぶん香水ではない先輩の香りを意識する。
触覚で、視覚で、聴覚で、嗅覚で。
氷室先輩を味わっていることを意識してしまう。
――ヤバい。
だからこの人に会うのは嫌なんだ。
この人の傍にいると、どんどん俺はおかしくなっていく。

いま、あの男に再び問われたら。
俺はこう答えるだろう。
「性格が悪くて、人の神経を逆撫でして、自分勝手で、可愛げがない」
そしてこう付け足すのだ。

「でも、それがすごく――」