造花の修道女
――――、そう。 私には、情動(ココロ)を共有できる他者(そんざい)が欠落していた。 ◇◆◇◆◇ 雨が降っていた。 とある歩道で、傘を差したふたりの人間がすれ違う。 ひとりは、ただの女。ひとりは、ただの修道女。 何事の変化も無く、何物の侵害も無く、自分の進む行く先へとふたりは足を進めた。 修道女の進む先に、男がひとり立っていた。男の首には十字の聖印を下げている。 「間違いないわ」 修道女が言った。 修道女が男を見るために傘を挙げる。 「彼女、憑かれているようね」 そう言う修道女の右眼は、だらだらと赤黒い泪(なみだ)を流していた。 男は、銀髪で琥珀色の眼を持つ女が流すモノを見て、修道女が来た道を進んでいった。 男が見えなくなってから、修道女――カレンは持っていたハンカチで右眼をぬぐった。 さきほどの“変質”のせいで眼は傷付き、右の視力はだいぶ弱まっていたが、左の視力は健在なのでまったく問題無い。身体全体にしてもそうだ、傷付き――癒える間も無くまた傷付き、身体機能は最低限のレベルでしか機能しなくなっていた。それでも、“生きる”ことに支障は無いので深刻な事態ではなかった。 「ふう…………」 なのに、カレンは嘆息が漏れた。 悩みはあった。だが、悩みは別にあった。 「なぜ、あの女の方は、悪魔(あんなモノ)を望んだのでしょう……」 女の動機が理解できなかった。女の望みが理解できなかった。 女に憑いていた悪魔、否――女が許容されたがっていた切望。“相手の考えている事が識(し)りたい”という、《思考の透視》《盗視の誘惑》。それに対する罪悪感が生んだ、自己擁護の顕現。それが、彼女に憑いている想念(悪魔)の本質だった。 カレンには、人が内包する悪魔の要因が無駄なモノにしか思えてならなかった。その起因から発生に至るまでの《構成手順》は、彼女は再三教わっている。人が望む悪魔という存在は、支援の無い者が求める“唯一残った支援者”だ。それを理解したうえで、カレンは“その存在こそ、そもそも不要”なのだと思っていた。 カレンは悪魔という《弁護の代用品》を憎んでいるわけではない。いまさっきの負傷にしても、悪魔の保持者をカレンは本当に恨んでいなかった。“思考を読み取る”という要求を、人が持つ通常のスペックでは実現できない眼球が不可能を訴えたことによってできた内傷。それが、悪魔憑き本人ではなく自分が体現してしまう事に、カレンはなんら不満は無かった。 ただ、純粋に――そこまでさせた女の苦悩をカレンは心配したのだ。 訊きたいことがあるのなら、直接当人に尋ねればいい。本気で本当に、カレンはそう考えていた。 だが、そうできなかった相手の心理的背景など、形式的に理解できても本質的には理解していなかった。 「そんなに……、私は違い過ぎるのでしょうか……」 何時だったか、自分に向けられた言葉をカレンは思い出した。 以前、人語を解す悪魔が自分をこう評した。 『未だ是非を持たず、いずくんぞ実体を持とうか』 あのとき悪魔は「認識を持たずして、どうしてその世界を実感するのか」と、そうしないカレンを蔑んでいたらしい。 昔、同僚にも似たようなことを言われた。 『真に疎むべきものが無い君には、さぞかしこの世は素晴らしく見えるのだろうね』 本心から「間違いなくそうです」と言ったときに見せた相手の顔は、いまでもよく覚えている。 「私自身は、誰も彼も認めているのですが……」 この世に居る全ての人間を、カレンは等しく“世界から認められた存在”だと思っている。 無機質な自分だからこそ「どんな悪徳も愛せる」とさえ自信を持って言えた。 ただ、一般的な価値観と較べれば、カレンのそれはだいぶ稀有で――だいぶ異様なものであった。 ふと、横手を見る。 歩道の横の花壇には、丹精に育てられた紫陽花が一面に植えられていた。幾重にも折り重なった蒼紫の花のタイルアートは、普通の人には見てて湧き立つ感銘もあるのだろう。 ただカレンには、 「花が沢山咲いていますね」 そう認識するしかなかった。 カレンは、“価値観や感性を他者のモノと歩み寄る”ことに半ば諦めていた。 不幸自慢なんて白痴な行為はする気も無いが、自分の生い立ちから現在までで経験したモノは、間違いなく特異で陰惨なモノだろう。人より多く苦しんだ者しか人を説くことができないのなら、自分に説法ができる人間など――宗教家の中にはまず居ないとカレンは思っていた。喩えるなら、人間が行える全ての悪行を経験したぐらいの者でなければ、私の心を揺り動かす科白は吐けない、と。 「そうですね。それぐらいの人物の言葉なら、聞く気にもなれるでしょうし、もしかしたら改心するかもしれませんね」 などと、自分で自分にカレンは相槌を入れてしまった。 すると、遠くで時を告げる鐘が鳴った。 「そろそろ戻りましょうか」 自分には次の任務があったのだと、カレンは思い出した。 詳細はまだ聞いていないが、どうやら今度は極東の僻地に向かうらしい。 長旅は身体の負担になるのだが、乗り物酔いだけは不思議と味わったことがなかった。 立ち去ろうとするカレンは、もう一度だけ紫陽花を見た。 「…………この花を“綺麗だ”と言ってくれる人は、本当に居るのでしょうか?」 誰も彼女の問いに応えてはくれなかった。 いま彼女の傍には誰も居ないのだ。 「行きましょう」 未練も、期待も無く、カレンは歩いていった。 彼女はまだ識らない、この先に待っているモノを。 (了)
by アロワナ太郎
境遇から思想・容姿まで、そのどれもが美しいです、カレンさん。そんな美しい貴女には、激辛マーボーと激甘カレーが合体したマーボーカ■■が相応しい。 貴女に、マーボー。
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