"俺は彼女の夢を見る" by ＫＡＧ

「ただいま～」
誰も居ないはずのこの時刻、なのに意味もなく帰宅の挨拶をして靴を脱いだ。外出していたのだから、まずは手を洗うなりうがいをするなりするべきなのだろうが、生憎俺にはそんな習慣はない。スリッパをひっかけ、タンタンと足音を立てながら階段を上り、自室のある２階へ。
正面にある閉じられたドアには、数年前に若くして亡くなった格闘家のポスターが貼ってある。雄雄しく踵落としのポーズをとる彼を横へ退けるようにしてドアを潜ると――そこには、有り得ないはずの姿があった。

まず視界に入ったのは、目にも鮮やかな金色の糸。いや、それと見紛うばかりの美しい金髪だ。美しく結い上げられた髪は窓から僅かに差し込む斜陽の光を反射し、薄暗いはずの室内がその輝きで明るく感じられるほど。
その輝きに包まれるのは、それに見合うだけの可愛らしい容貌。宝石のように澄んでいるだろう碧の瞳は閉じられ、意外に長い睫が目蓋を縁取っている。そして瑞々しく薄桃色に濡れた唇は、清楚な白いブラウスに包まれた薄い胸が浅く上下するのに合わせて、すーすーと寝息を立てていた。
「■……■■■■……？」
思わずその名を口にする。俺の部屋で座椅子の背を倒して横になり、無防備にまどろんでいるのは一人の小柄な少女だった。そのお腹の上には開いたまま伏せられた文庫本が置いてあり、どうやら読書をしている内に夢の世界へと旅立ってしまったものらしい。

いや、夢を見ているのはむしろ俺の方だろう。何せ彼女が俺の部屋にいる理由がない。というか有り得ないのだ。夢の中らしく、難しいことを考えられない頭で漠然とそう思う。もしこれが現実だとしたら、俺は誰だというんだ？
「ん……」
そのとき不意に彼女が寝返りを打った。その拍子に、行きつけの書店のカバーを掛けられた文庫本が、彼女のお腹から滑り落ち、ぱさりと乾いた音を立てる。その僅かな音に反応したのか、年相応な無邪気さの中にもどこか優美さを感じさせる所作で、ゆっくりと少女が起き上がった。上品に口に手を当て「あふ……」と可愛らしいあくびをすると、そこでやっと室内に自分以外の人間がいることに気付いたようだった。
「あ……お帰りなさい、■■■■」
どくんと、年甲斐もなく胸が高鳴った。聞いたこともないはずの彼女の声で、ただ俺の名を呼ばれることがこんなに嬉しいとは。少年のように頬を紅潮させることこそなかったが、その笑顔に魅了され、ただ見惚れた。なんて綺麗で可愛らしい――。
この少女が剣を握り、甲冑に身を包み、戦場を駆ける姿など今は脳裏にも浮かばない。それこそが彼女であり、その姿に心打たれたこともある。だが逆に、彼女が剣など知らぬただの少女であったとしても、その魅力が減じることはないと断言できる。
「どうかしたのですか？」
「いや……なんでもないよ」
小首を傾げて見上げてくる少女に手を伸ばし、彼女が俺の手を握ってくれると、そのまま優しく引き起こした。少女はごく自然に俺に身を預けてくる。応えるように、柔らかな身体をぎゅっと抱きしめると、少女は俺の腕の中で微笑んだ。
「やはりここが一番安心して眠れるようです……」
程なくして再び寝息が聞こえ始めた。立ったままだというのに器用なことだ、と苦笑が漏れる。だがそれも、俺に完全に身を委ねてくれているからこそ可能な芸当なのだ。それを思うと、幸せで、嬉しくて――そして切なくなる。

ああ――夢が必ず覚めるものならば。せめてまた同じ夢が見られますように。