"『夜明の夢』" by 高橋硅

彼女は去る。
　この終わりのないはずの夢を、その手で終わらせた少年を誇らしく想いながら。
　この居心地の良かった世界から。
　許されるならば、もう少し、ほんの少しだけ、続けたいと願ってしまった世界から。
　それでも彼女は去る。
　彼の望みは、常に過去ではなく未来にある、と理解しているから。

『夜明の夢』

眼前を塞ぐ黒い獣。その姿を見据え、剣を振りかぶる。
　力の出し惜しみなどするつもりは無い。
　この世界を破壊し、本来の『世界』へと繋げようとする『彼』の望みは、自身の望みでもあった。
　本当ならば、もう少しだけこの夢を続けたいと願う自分がいる。
　そんな弱い自分を知りつつも、彼は言ったのだ。
　あの夕陽に満ちた世界で、己との生活が続くと信じていた彼を見つめながら、想ったのだ。
　いつかきっと、この夢は終わる、と。
　終わらない夢などない。
　そんな当たり前なことを、想ったのだ。
「はぁぁっ――！」
　白光が視界を焼き尽くす。己の手に握られた聖剣は、その意志に従って立ちふさがる者全てを薙ぎ払う。
　ナゼダ、と口々に叫びながら、背後にある扉を目指して殺到する獣たち。

――何故、邪魔ヲスルノカ――
　――コノ夢ヲ終ワラセナイタメニ、我ラハ来タトイウノニ――

そんな糾弾の声を聞き流し、笑う。
「――何故？　愚問です」
　輝きを失うことのない聖剣をかざし、獣たちを一刀の元に斬り伏せる。
　骸の山を築き上げながら、それでも一向に減ることのない獣たちを見据え、剣を構える。

――貴様トテ、コノ夢ガ続クコトヲ望ンデイルダロウニ――

そんな声に、さらに笑みが漏れる。
　ああ、そうとも。自分はこの夢が続くことを望んでいた。
　だって、これは夢だ。自分が望んだ、長い長い夢のひと時。ならば、望んでいないはずがない。
　それでも。
「それでも、夢は終わる」
　鋼は獣の喉を貫き通し、その背後から殺到する物を巻き込んで払い除けた。
「貴様らが望むのは、永遠に変わらぬ夢。永遠に変わらないがゆえに、永遠に終わる事ができない夢だろう」
　ひたすらに続く四日間。
　未来のいずれにも繋がらない。ただただそこで終わり続ける、どんな喜びも、どんな悲しみも、どんな想いも、どんな志も、全てはそこで途切れてしまう。
　たとえそれを、自身が知覚できずにいるのだとしても。
　今、あの天空の階段を上る少年を想う。
　きっと彼ならば、こう言うだろう。
「やり直しのきく過去など要らぬ。未来に繋がらぬ今など要らぬ」
　ザン、と獣の頸を踏み潰し、立つ。
「たとえ己の所業を後悔しようとも、たとえ己の歩いた道を不安に思っても」
　その全てを抱えたままで、生きていく。
　それはきっと、とても辛く険しい道のり。
　ヒトには耐え難い、苦痛を受けるだろう道だろう。
　それでも。
「――シロウはその道を往くと決めた。ならば、私は彼のサーヴァントとして、その道の邪魔をするものを排除するのみ」
　鋼の巻き起こす血風に巻かれ、獣たちの屍山血河が築き上げられていく。
　赤い燐光を両の目に宿した黒い影が、まるで死の恐怖を忘れたように次々に現れる。
　常ならば、その数に戦術的撤退も一考したかも知れない。
　だが。

「約束された勝利の剣――――――！！！！！！！！」

光は、続けざまに放たれた。
「出し惜しみはせぬ。貴様らの望みは理解している。だが！」
　消耗など知らぬ、と。そんな顔で、立ちふさがる白銀の少女騎士。けれど、その細く小さな姿が、これ以上ないほどに大きく獣達には見えていた。
　巨大な、まさに城壁と呼ぶに相応しい、圧倒的なまでの威風。
「これは我が主の望み。ならば、私はそれに応える」
　階段を上る少年が、あの月に辿り着けるように―――。
　ただ、この身に為せることを為そう。
「来るならば来い。だがこの剣にかけ、貴様らは決して通さぬ」
　死という名の鋼刃を繰る紺碧と白銀の少女。その足元に築き上げられた屍山血河。
　ああ、だが何故だろう。
　そんな凄惨な光景が、これ以上ないくらい、高潔な清らかさに満たされているように見えるのは。
　獣達は少女へと殺到する。
　扉をくぐり、階段を駆け上り、少年を殺す。
　そのためだけに集まったはずの彼らが、少女の剣へと殺到する。
　少女の喉より迸る叫び。
　そして、再び生まれる白光の奔流。
　それに飲み込まれていく獣たちの姿。
　まるで自ら望んだように、回避する様子すら見せずに光に消えていく。
　終わりのない夢を守るために現れたはずの獣が、終わりを望むように。
　新都の街並みに、静けさが戻る。
　否。今も新都と深山を繋ぐ橋には獣たちが集まり、そこより溢れた者たちがこの階段の入り口を目指しているのだろう。
　それでも――僅かな間に、少女は天空を仰ぐ。

細い、細い、まるで蜘蛛の糸のような階段が月へと続く。
　そこをきっと彼は、彼らは登っている。
　この夢を終わらせるために。
「……未練、でしょうか」
　僅かに零れた呟きを聞く者はいない。
　だが、そんな呟きに自ら首を振る。
「そうですね。これは未練なのでしょう。……だが、私は十分だ」
　あの夕陽の中で見つめた街並み。心に焼き付けた彼の姿。
　彼が通う学園と、その教室を歩いた。
　赤い夕陽に染まったその世界は、きっと彼にとっての日常だった。自身と共に駆け抜けた夜とは違う、彼が守りたいと願っていた物達。
　ならば、私もまた、それを守りましょう。
　主の望みが、我が望み。彼が守りたいと望むのならば、盾にして剣たる己が守らずして、誰が守るというのか。
　たとえ魔力に限りがあろうとも、この夜に限ってならば出し惜しむ理由は無い。
　なぜならば、これが最後の戦い。
　あの月での戦いに、自身の力は貸すことはできない。あれは、彼だけの戦いだ。
　だからこそ、この場での戦いこそが、自身に為せるただ一つのこと。
　彼の邪魔を決してさせない。
　それだけが、この身に許された最後の役目。

新たな気配が集結していくのが分かる。あの橋を越えた者達にしては数が少ないのが気に懸かるが、それを確かめる暇はあるまい。
　新たな気配は先の獣たちの集団に勝るとも劣らぬ数なのだから。
　聖剣の柄を握りなおし、呼吸を整える。もはや感傷は不要。
　今必要なのは、眼前に見据えた敵を薙ぎ払う絶対の意志のみ。

「――来い。貴様らの望み、叶えさせるわけにはゆかぬ」

新しい明日を迎えるために、この場にて、私は最大最強の盾となろう。

集い、叫ぶ獣の群を銀の暴風が薙ぎ払った――――。

†　　†　　†

朝陽が昇る。月へと続く階段は陽光にかき消されていく。
　否。あれはもう、今にも途切れそうなほどに、薄れていた。
「……五日目の朝、ですね」
　見上げた空は、果たして見た事のない空なのだろうか。そんな益体もない事を考える。
　陽光に照らされ、獣たちの屍はまるで泡雪のように消えていく。
　そんな中、気付く。
「――そう、か。夢はもう」
　自身もまた、透き通るように薄れていく。
　夢は夢に還り、現実は現実に還る。
　もはや夢は終わり、この世界は現実へと手渡された。ならば、夢の住人の居場所など、ありはしない。
　あの朝陽が昇りきれば、きっと―――。
　そこに後悔は無い。あるのはただ、やり遂げたという満足感だけ。
　彼とは別れの挨拶もしなかった。
　だって、二度も別れを告げるなど、無粋の極みではないか。
　そんなことを考えて、笑う。

ああ。彼は望みを達した。新しい朝は明けた。ならば――夢は夜と共に消え去ろう。
　振り返り、川向こうの町を見る。

思い返した四日間は、ただただ楽しかった。
　それで十分。

夢は夢に。現実は現実に。
　これはただ、それだけのこと。

静かに目を閉じる。
　一陣の風が、吹きぬける。
　ただ、それだけのこと。
　たったそれだけのことで、誰にも越える事のできなかった絶対の城壁であったはずの少女の姿はかき消えた。

そして、新しい朝が来る――――。

ends.