"夢物語から現実へ。" by 黒羽雪那

「今はもう夢物語だけど。
　これから、ずっとシロウと一緒に眠れたのなら、私は幸せだったのかな」

ありえない仮定を語るように、少女は笑顔で呟いた。
それはまるで、自分は幸せになることができないと、確信しているような言葉だった
その言葉に、その笑顔にすごく腹が立った。
こんなささやかな幸せが――普通の子供なら、当たり前のように与えられるはずの幸せが、この少女にとっては夢物語でしかないというのか。
こんなにも暖かいまどろみの中に少女はいるのに、そんな笑顔でしか笑えないのか。
そんなの嫌だ。
こんな幼い少女が――ずっと一人で泣いていた少女が幸せになれないなんて――

気がついたら、布団を跳ねのけていた。
外はまだ暗く、空気も冷たい。
夜の闇に包まれた世界に動きはなく、誰も彼もが眠りについている。
だというのに――自分の心だけが、必死に焦燥を訴え続けていた。
「今の夢は……」
あれは間違いなくイリヤの夢。
切嗣を憎み、俺を殺すために聖杯戦争に参加した、今も一人で泣き続けている少女の夢。
今でこそ、衛宮邸の皆となじんでいるが、本当は――
「……くそ」
焦燥は止まらない。
けれど、どうすれば収まるかもわからない。
どうすれば――イリヤを幸せにしてやれるのかがわからない。
「ああもう！こんなんじゃとても二度寝なんてできないじゃないか！」
それでも布団に潜り込み、二度寝を試みる。
それも、無駄な努力に終わってしまったのだが。

「というわけでイリヤ。
　もし暇だったら、どこかにでかけないか？」
「――え？」
結局、寝ることを放棄し、ずっと考えて出た答えがこれだった。
ようするにデートである。
うだうだ考えても仕方がない、とにかく楽しませようという結論に至ったのだ。
朝ごはんのあと、皆が居間から出て行ったところを見計らって切り出してみたが、当の本人は固まったままである。
「えっとイリヤ。今日は暇かな」
「――え？あ、うん、暇、だけど。
　突然どうしたの、シロウ？」
うん、もっともな疑問だ。
約束も何もない、突発的な思いつきなわけだし。
「いやなんていうか。急にそうしたくなっただけで、他意はないんだけど」
「それって……私とデートをしたくなった、ってこと？」
イリヤが少しだけ期待を含めた目でこちらを見る。
「う」
言われてみれば、そういう風に取れなくもないな。
というか、今の心境はようするにそういうことなんだよな。
うわ、急に恥ずかしくなってきた……っ！
「ま、まあ、そういうことになるのかな、うん」
頬の辺りがやたらと熱いが、ここで引いてなるものか！
そう自分に言い聞かせながら、イリヤの様子を伺う。
「ホントに、私と？」
だんだんとイリヤの眼が輝きを増してくる。
それに比例して、自分の頬の熱が高まっていく。
あー、俺の顔、真っ赤なんだろうなぁ、今。
「あー、うん、イリヤと。その、ダメかな？」
その瞬間、イリヤの期待に満ちた顔が、臨界点に達したかのごとくパァっと明るくなった。
「う、ううん、そんなことないっ！
　やったー！シロウとでーｔ――むぐっ」
「ま、まったまったイリヤ！」
慌ててイリヤの口を塞ぐ。
今ここで大声を出したりしたら、皆に気づかれかねない。
特にどこかのメイドさんに。
「今騒いだら、いつかの二の舞になる。他の皆に気づかれないよう、静かに行動しよう」
特にセラには。
「そ、そうね。前みたいに、大挙してついてこられたらたまらないわ」
「そういうわけだ。というわけで、こっそりと外に出よう」
「さー！いえっさ！」
笑顔で軍人口調な受け応えをするイリヤ。
よかった、まずは第一段階クリア、というとこか。
「じゃあ準備が出来次第、玄関前に集合しよう。準備の際も、警戒を怠らぬように」
「うん！すぐに準備するから待っててね！先に行っちゃやだよ？」
「いや、先に行ったらデートの意味ないし」
と言ったものの、すでにイリヤの姿はなかった。
大急ぎで準備をしにいったらしい。
「とりあえずは喜んではもらえた、かな」
だが、これからが本番だ。
イリヤを幸せにする、というのもあるが、何よりあのメイド二人がこのまま見逃すはずがない。
「何か手を考えなくちゃな……」
イリヤの準備が済むまでに、ひとつ手を打っておこう。

30分ほどして、イリヤが玄関にやってきた。
いつもの黒いコートに黒い帽子、完全な防寒装備だ。
「おまたせ、お兄ちゃん！お邪魔虫がこないうちに、出発しましょう！」
イリヤはすごく上機嫌だ。
ほのかに頬を染め、今にも飛び出しそうな勢いである。
「よし行こう」
腰を上げ、玄関を開ける。
そこに広がるのは、外の景色――

「いけません、お嬢様」

――ではなく、白と紺のコントラストだった。

がらがらがら。
閉めた。
「―――！――――――！」
なんか叫び声が聞こえるが、聞こえないふりをする。
イリヤも、なんか呆れたようか顔をしてるし。
「……さて、行こうか、イリヤ」
「……うん」
さっきのことを無かった事にして、もう一度玄関を開けてみる。
うん、さっきのは悪い夢に違いない、そうに決まって――

「お嬢様をどこへ連れて行く気ですか、エミヤ様」

なんか、白いのが、いた。

「く、やはり立ちふさがるか、アインツベルン城最大の敵め……！」
玄関を開けた先で、セラが仁王立ちしていた。
心なしか、寒そうに震えている気がするのは、気のせいなんだろうか。
もしかして、ずっとそこにいたんですか、セラさん……？
「うん。セラ、ずっと寒いの我慢してた。えらいえらい」
隣にはリズことリーゼリットの姿もある。
彼女のほうは、寒さで震えている様子は無い。
まあ、さっきまで家の中にいたのだから、当然か。
「呆れた。姿が見えないと思ったら、ずっとそんなところにいたの？セラ」
「はい、お嬢様」
寒さに凍えている姿をイリヤに見せないためか、背筋をピンと伸ばし、
「今朝、またも最悪な星回りを観測いたしまして。エミヤ様がお嬢様をさらうことが無いよう、玄関で待機しておりました」
うわ、いきなり犯罪者扱いですか。
「……もう。
　下がりなさい、セラ。今日はシロウが私をエスコートしてくれます。あなたが心配するような事態にはなりません」
イリヤが主人の威厳を持って、セラに言う。
だがしかし、そこはイリヤに長年仕えるメイド長。
「いけません、お嬢様。
　そのような下々な者に、お嬢様をエスコートできるとは思えません」
一歩も引かずにイリヤに意見してきた。
やはり、この最大の敵を退けないことには、イリヤとのデートは実現不可能か。
「……シロウ」
イリヤが申し訳なさそうにこちらをみている。
ここでセラが出てきてしまっては、例え今、二人を振り切ったとしても、二人っきりでデートは絶望的だ。
イリヤがそういう顔をしてしまうのも無理はない。
が、しかし。
「安心しろイリヤ。我に秘策アリ」
そう。
今回はすでに手を打ってあるのだ。
「とにかく！お嬢様と二人っきりでデ、デデデ、デートなんて許すわけにはいきません！
　リーゼリット！取り押さえなさい！」
「ん。わかった」
リズがコクン、と頷き、羽交い絞めにする。

――俺ではなく、セラのほうを。

「「え？」」
驚きはイリヤとセラの声。
俺はリズに右手の親指を立て、
「ぐーてんたーぐ」
二人の秘密の挨拶を口にする。
リズはそれに答えるように、右手の親指を立て、
「ぐーてんたーく」
と、答えてくれた。
この瞬間、二人の戦友はツーカーのごとき意思疎通を実現したのだ……っ！
「リ、リーゼリット！取り押さえる相手が違います！」
「ごめん、セラ。今日だけは見逃して」
「何を言っているのです、リーゼリット！このままではお嬢様が――」
「これもイリヤのため。あとでシロウのお弁当を分けてあげるから、我慢する」
「ば、買収しやがりましたね、エミヤシロウ！なんて卑怯な！」
ネタバラシすると。
30分ほど前に、俺の弁当とべコちゃん屋のケーキでリズを味方につけただけなんだが。
「さて、これで当面の危機は去った。行こう、イリヤ」
そっとイリヤに、右手を差し出す。
「……あ」
イリヤはその右手を呆然と見つめ、
「――うん！」
すぐに満面の笑顔を浮かべ、右手を重ねてくれた。

――とまあ。
ここまでは、思いのほか順調だったのだが。
「……ここから先を考えてなかったのね」
ため息をつきながら、イリヤがつぶやく。
「……すまん、イリヤ」
そうなのだ。
夢から覚めてから延々と悩み、とりあえずイリヤをデートに連れ出そう、と決めたまではよかった。
だがしかし。
肝心のデートコースがまったく思いつかなかったのである。
「もう……シロウらしいといえばシロウらしいけど、ね」
呆れたような台詞とは裏腹に、イリヤはにっこりと笑っていた。
「やっぱり、私がいないと駄目ね、お兄ちゃん？」
と、極上の笑顔を浮かべたまま、俺の腕に抱きついて――
「ま、まままま、まったイリヤっ！」
そーいった不意打ちは控えてもらいたいっ！
イリヤの笑顔を見てるだけで頭が溶けかけるというのにっ！
「しょうがないからぁー、私がシロウをエスコートしてあげる」
そう言って、イリヤは俺の腕をつかんだまま、を商店街のほうに連れて行こうとする。
「い、いやイリヤ。エスコートって男が女の人に付き添うことであってだな――」
「そんなの知らなーい。いいから行こう、お兄ちゃん」
まあ、イリヤは楽しそうだし、これはこれでいい――のかな？

それから、二人で商店街を歩き回った。
新都まで行こうか、と提案したのだが、イリヤはこの商店街が気に入っているようで、ここを歩き回ることになったのだ。
前にも一度、こうしてイリヤと商店街に来たことがあったが、あの時と同じように、屈託の無い笑顔でイリヤははしゃいでいる。
その姿はとても楽しそうで、傍から見れば、仲のよう兄妹のように見えるのだろう。

――けれど。
その笑顔は、あの夢の笑顔と一緒だった。

あの時の焦燥が蘇ってくる。
どうしたら、この少女は心の底から笑えるのか。
どうしたら、イリヤを幸せに出来るのか――
「お兄ちゃん？」
「え？」
「どうしたの、お兄ちゃん？難しい顔しちゃって。
　こんな立派なレディの目の前で上の空になるなんて失礼だよ」
いつの間にか、イリヤをほっといて難しい顔をしていたらしい。
いかんいかん、今日はイリヤを楽しませるためのデートなのに。
「あ、ああ、すまん。ちょっと考え事してた」
「考え事――今日のデートの事？」
先ほどまでとは違う、感情の無い声でイリヤが言う。
「あ、いや、その――」
さっきまであんなに楽しい空気が、一瞬で壊れてしまう。
どうにか、元の空気に戻そうとするが、いい方法が思いつかなかった。
「うん、変だとは思ってたんだ。約束もしていないのに、シロウから私を誘うなんて。
　嬉しかったから今まで聞かずにいたけど――本当にどうしたの、シロウ？」
答えに詰まる。
悪いことなどしたつもりはないのに――何かに責められているような居心地の悪さだった。
「うん、ここじゃ話しにくいよね――公園に行こう、シロウ」
そう言って、イリヤは一人で先に歩いていく。
その背中は、さっきまでの楽しそうなものとはかけ離れたものだった。

公園に着くと同時に、二人でベンチに腰掛ける。
話すべきことがあるはずなのに、声が出ない。
そんな、冷たい沈黙が流れ続ける。
だからと言って、このままというわけにはいかない。
「……その。夢をみたんだ」
このデートのきっかけを話し始める。
イリヤは無感情のまま、その言葉に耳を傾けている。
「そこではイリヤが笑っているんだけど――その、なんというか、幸せじゃないというか、幸せになることをあきらめているというか――あーもう、なんて言ったらいいんだかわからないけど」
頭をかきむしりながら続きを言おうとする。
自分の言葉の足りなさが恨めしい。
「……どうして。どうしてそう思うの？」
ふと、イリヤがベンチから降りて、こちらを向いた。
その表情は、あの時の――聖杯戦争の時のマスターの顔に似ていた。
たった一人で、アインツベルンの千年の歴史を背負って冬木の街にやってきた、幼い少女。
切嗣を憎み、俺を殺すために聖杯戦争に参加した、今も泣き続けている少女――
「その、なんか寂しそうでさ。一緒に寝ていて、とても幸せそうなのに、それが夢物語だとあきらめていたんだ。それが――どうしても許せなかった」
その少女を。
俺はただ幸せにしてやりたいだけなのだ。
切嗣の息子として。
そして、衛宮士郎という個人としても。
「――――」
相変わらずイリヤは無感情のままだ。
何を考えているかなんて、読み取れるわけが無い。
「そんな夢を見たら、いてもたってもいられなくなって、イリヤを連れ出したんだが――その、迷惑だったか？」
言うべきことは全部言った――と思う。
あとはイリヤの答えを待つだけなんだけど――
「……そっか。いっぱい心配させちゃったね、お兄ちゃん」
「え、いや、確かに心配はしたけど、俺が勝手に心配しているだけ――」
言い切る前に、イリヤが真正面から抱きついて――て、あれ、えと、その、口のあたりが、なにやら、柔らかい、んですが――
「ちょ、イ、イイイイイイ、イリヤ！？」
「えへへ」
頬をほのかに染めながら、イリヤは俺から離れた。
い、今のって、ま、ままままままさかー！？
「大丈夫だよ、お兄ちゃん」
照れくさそうな、けれども心からの笑顔を向けて――

「こんなにも、私のことを心配してくれるお兄ちゃんがいるんだもの。
　私は、幸せだよ。
　夢物語じゃなくて、この現実で、ね」

そう言って、にっこりと笑った。

ああ、その笑顔はとてもいい。
イリヤは、自分が幸せだと、心から実感している笑顔を向けてくれた。

「さあ、そろそろ帰りましょう。いつのまにか日が暮れちゃったし」
イリヤは、ゆっくりと公園の出口に向かった。
「ああ、そうだな。夕飯の準備もしないといけないし」
最初は勢いだけの思い付きだったけど。
連れてきて本当によかったと、今は心のそこから思う。

そして、俺は心に誓う。
あの笑顔を、これからもずっと守っていこうと。