"冬の倫敦にて" by きょ

「･･･寒い」
　首筋を撫でる寒風に遠坂凛は思わず首を竦めた。
　住み慣れた冬木の街と違い倫敦の冬は身にしみる。
　昔、学生の頃に好んで穿いていたような短いスカートではとてもこの寒さには耐えられそうにない。
「ただいまー」
　返事が返ってこない事は分かっていたがそれでも習慣的に帰宅の挨拶をしながら倫敦での彼女の住居であるアパートの扉を開けると、室内のほのかな温もりが彼女を包み込んで安堵させてくれた。
　それでも、
「･･･なんだってのよ」
　何故かひどく寂しい。
　返ってくる声が無い、ただそれだけの事が、遠坂凛の人生で大半を占めてきたその事実がこんなにも物悲しい物だったとは今まで気付きもしなかった。
　手にした買い物袋を机の上に置き、巻き付けていたマフラーを解きながらふと首に掛けたペンダントの事を思い出す。
　遠坂の家に伝わっていた赤い石のペンダント。
　聖杯戦争で役に立つだろうと先祖伝来の物を見つけ出し、彼女が予定していたものとは全く違う形で使われた赤い石。
　けれどそれを後悔した事など一度も無い。遠坂凛は後ろを振り返らないのだから。
　それはアイツに言われた事、彼も･･･
「やれやれ」
　脳裏に浮かぶ赤い髪の少年を思い出し、苦笑する。
　柄にもなく感傷的になっているようだ。
　一人冬の倫敦を歩いたせいだと思い込み、手際よく淹れた紅茶を手に寝室へと向かう。　
「全く、遠坂凛ともあろうものが弱くなったものよね」

「遠坂のどこが弱くなったんだよ」
　ベッドの上に横たわりながら憮然と、しかし力の無い声で反論する。
「え？　弱くなったわよ」
「――どこが？」
　当然のように言い切る凛の言葉に首を傾げながら衛宮士郎はティーカップに口をつけた。
　遠坂凛は強い。
　初めて出会った冬木の街でも、一緒に来た倫敦の街でも。
　その在り様はどこまでも気高く、鮮やかなままだ。
　彼女は衛宮士郎など足元にも及ばない一流の魔術師であり、それは冬木の街にいた頃から変わらず･･･いや時計塔に入学してさらに魔術師としての技量を高めつつある。
　そんな彼女のどこが弱くなったというのか。　
　･･･いやもうその右フックなど本気で世界を狙えるのではないだろうか？
「――衛宮くん？」
　学生時代よりさらに切れを増した凛の格闘技術を思い出し一人体温を下げていると、同じようにティーカップを傾けていた凛がにっこりと物凄く綺麗な笑みを浮べた。
　それはもはや見慣れてしまった、ぞっとするほどに綺麗な――あかいあくまの笑み。
「ど、どうした遠坂」
「あなた今物凄く失礼な事想像しなかった？」
「まさか！　そんな命知らずなことするわけないだろ！」
「その発言も十分に失礼だと思うけど･･･まあ、いいわ」
　むー、と睨みつけてくる凛に聞こえないよう安堵の溜息を吐き、士郎は再び紅茶に口をつけた。
　彼女が淹れてくれたハーブティーはほど良い温度と香りで疲労した彼の体力を癒してくれる。
「で、遠坂のどこが弱くなったんだ？」
「･･･そうね、いつも士郎と一緒じゃないと寂しくて仕方ない所かしら」
「な、なに？」
　唐突にそんな事を言い出した凛の顔を思わずぎょっと見やる。
　自分をからかう新手の手法だろうか？
　けれど士郎の顔を見ながら微笑む凛の笑顔はいつものからかうようなものとは違う優しいものだ。
「『ただいま』って帰ってきたら『おかえり』って士郎が言ってくれて、出掛ける時はいつも士郎が一緒で･･･私は一人じゃなくなった」
「そんなの当たり前だろ？」
　何を当然の事を、と思いながらそう言うと凛は苦笑を一つ漏らして視線を上に向けた。
「うん。でも私は魔術師だから、根源を目指す魔術師だから、そんな人並みの幸せとは無縁だって――ずっとそう思ってたわ」
　それは魔術師として当然の事だ。
　魔術師とは常に孤独に歩む者。
　一代では届かぬ、あるいは決して届かないかもしれない目的の為に生きる魔術師にとって血統と魔術を伝える為のパートナーは必要だろう。
　けれどそれは手段であって目的ではない。
　パートナーを得たからといって孤独に耐えられなくなるなど、魔術師にとって堕落以外の何物でもない。
「だから、私は弱くなった。衛宮士郎に出会って、人並みの幸せを知って、遠坂凛は魔術師として弱くなったのよ」
「遠坂･･･」
　そう言って笑う凛の笑顔はとても幸せそうで、けれどひどく儚げだった。
　だから――
「俺が守るよ」
　冬木の街から変わらぬ赤面症で顔を赤くしながら言葉を告げる。
「その、へっぽこで半人前でまだまだ未熟者だけど。『正義の味方』の理想は捨てられないけど･･･」

遠坂が弱くなった分、俺が守るから。

「――ありがとう」
　凛は嬉しそうに微笑みながらそっと胸元を手で押さえる。
　遠坂の家に伝わっていた赤い石のペンダント。
　一度は彼女の手から離れ、無数の戦場と無限の可能性を越えて赤い弓兵の手から彼女の元に返ってきた赤い石。
　そこに込められていた魔力はすでに無い。
　本当にどうしようもない心の贅肉で彼女が全て使い果たしてしまった。
　けれどそれを後悔した事など一度も無い。
　遠坂凛は後ろを振り返らないし、そもそも後悔する理由が無い。

本来ならばこの世に一つしかない、けれど今は彼と彼女の元に存在する大事な絆。

「――だから遠坂」
「ん？　なに？」
「少しは手加減を憶えてくれ。正直このままじゃ守るはずのお前に殺される」
「なっ！？　何言ってんのよ！」
「･･･俺が風邪引いた理由を忘れたとは言わさないぞ」
「あ、あれは士郎が私とデートしてるのにルヴィアの事を･･･」
「だからって！　いくらなんでもロンドン橋から右フックで冬のテームズ川にダイブは死ぬぞ！？」
「い、生きてるからいいじゃない！　過ぎた事をぐだぐだいうのは男らしくないわよ！」
「そういう問題か！？」
「そういう問題よ！　遠坂凛は後ろを振り返らないんだから！」
「いや、振り返ってくれ！？　そこの所は切実に！」