"決意" by 鷹山

夕刻。
　徐々に薄暗くなる屋敷の中を、トントンとリズミカルな音が走り抜ける。包丁で野菜を刻んでいるのはこの屋敷の主ではなく、制服の上からエプロンを身につけた一人の少女だった。非常に慣れた手つきで野菜を切り終えると、すぐさま次の作業に取りかかっていく。
　この時刻、いつもなら屋敷は喧噪に包まれている。しかし今日は珍しく、少女以外に誰もいなかった。世話好きでお人好しの主も、その姉のような存在の女性もいなければ、主の憧れであった同級生や妹のような雪の少女もいない。そして当然のこと――――金色の髪をした、あの少女も。

聖杯戦争が終わって、既に半年以上が過ぎている。あの少女もやはりサーヴァントだったのだろう、台所に立つ少女はそのように確信していた。聖杯戦争と共に現れその終結と共に姿を消すなんて、偶然にしてはできすぎている。だが確かめることなどできようはずもない。確かめようとすればその時、少女は魔術師であることも明かさなければならなくなるのだ。魔術師であることを隠しているがために、どうしても確認することのできないジレンマは、時たま少女にとって重荷になった。
　あの少女が『先輩』の心の中にいるのが分かってしまうから。

秋の日はつるべ落とし。物が見づらくなってきたことを感じて少女が顔を上げると、辺りはすっかり闇に包まれていた。もう日が落ちてしまっていることに気付くと、少女は慌てて電気をつける。暗いからではない。
　少女はただ、暗闇に慣れていることに気付かれるのが恐かったのだ。
　――――それがいずれ、少女の闇を暴き立てるかもしれないから。

料理はいつも少女に一つの悩みをもたらす。
　もっと料理の腕を上げたい。それは間違いなく少女の願いである。大切な人のためもっと美味しい料理を作りたいと願うのは自然なこと。叶うことのない想いであろうと――――それ以前に少女は、叶わないことを望んでさえいるが――――それは変わらない。もっと上手くなりたい、『先輩』を超えたい、少女は心からそう願っている。

しかしその一方でまたもう一つ、願いがそこにある。もっと『先輩』に料理を教えて貰いたい、と。
　洋食に関しては既に少女の腕の方が上である。聖杯戦争の頃にはまだ追いついていなかった。しかしこの半年あまり、少女はめきめきと腕を上げ、完全に追い越してしまったのだ。当初はそれを嬉しく感じていた少女だが、その結果として生じた変化は苦痛ももたらした。よくよく考えれば自明の結果ではあるが、少女はこれまでとは逆に、『先輩』に教えを請われることもあるようになったのだ。
　これじゃだめと少女の心が叫ぶ。少女はあくまで、『先輩』に『教えてもらい』たかったのだ。キレイナモノに近づきたい、そうすればキタナイワタシも変われるかもしれない。そうした一種の変身願望が少女にはあった。
　だが、少女が教えることになれば。少女から『先輩』への流れができあがってしまえば、少女のキタナイモノが先輩を汚してしまうかもしれない。あり得ない話ではあるが、少女は本心からそれを怖がっていた。

だから少女は、腕を磨きつつもその腕を隠す。これ以上はもう駄目だ、と。

――――実際のところ。好きな人より料理が上手くありたいと願う乙女心と、好きな人に色々教えて欲しいという乙女心の狭間で揺れているのだと見ることもできるだろう。それもおそらく少女の真実。

少女はただ自分を肯定できないだけ。肯定できる自分に変わろうとできないだけ。そして。

ただ少し、そうした前向きな見方が少女には出来ていないだけ――――。

「遅いなあ、先輩」
　誰も帰ってこない居間を眺めながら、少女は言葉を漏らす。自分一人だけの屋敷。こんなことは久々だった。
　昔……といってもせいぜい一年ぐらい前ではあるが、そのころは当たり前だった。『先輩』がバイトから帰ってくるまで、あるいはその姉のような存在がやってくるまで。少女は一人、ぽつんと居間で過ごすことが多かった。寂しさを感じたことなどない。それが少女にとって自然だったから。
　しかし今、少女ははっきりと寂しさを感じている。かつて養子としてもらわれた頃と似た、全てに見放されたような感覚。世界でただ独りぼっちのワタシ。誰も味方になってなどくれないのだと知った幼い日のことを思いだし、少女は一人震えそうな自分を抑えている。
　どうして今日は誰もいないのか。ほんの偶然でしかないはずだ、そう思いながらも胸騒ぎを覚える。

遅いと感じるのは、帰ってくると分かっているからこそ。だがしかし。主は、本当に帰ってくるのだろうか――――？

いつの日か、『先輩』は遠くへと行ってしまう。少女にはそんな確信めいた予感があった。
　正義の味方を目指すならば、ここに留まることはできないだろう。どこかで助けを求める誰かを助けずにいられないだろうから。ここは『正義の味方』にとって、仮の宿りに過ぎないはずだ。ここを出る日だって、そう遠くはない。学校という最後の枷も、効力はあと半年もあるかないか。

――――そうなったら、わたしはどうすればいいんだろう。

少女の思考は必ずそこで止まる。その先にあるものが少女には見えないのだ。唯一自分が人の振りをして、キレイな振りをして生きていける場所。そこを失った時にどうすればいいのか、少女は思いつけずにいた。また、あの蟲倉に一人戻るのだろうか。
　仕方ない。そう、仕方ないことだ、と少女は思う。少女にとってはそれが当然のこと。むしろ今の方がおかしいのだ。

いつも少女はそこで考えることを止めてきた。諦め、自分が悪いのだと言い聞かせることが少女にとってたった一つの生きる術。だから少女はそこで諦めることを選んできたのだ。
　だがしかし。唯一孤独ではないと錯覚できる場所でさえ、今少女に孤独を与えている。そのことが少女に諦めを許さない。思考を止めてしまえば、それこそ耐えられないだろうから。二度と帰ってこないという最悪の想像を振り払うために、少女はその先を考えるという矛盾した行為に入り込む。しかしどれほど考えようと、メビウスの輪のように終わりは見えなかった。

どうしようもない、と少女は強引に思考を打ち切り、居間に夕食を並べ始める。それはいつも通りのこと。少女にできるのはいつも通りのことしかない。いつも通りのことしかできないのだ。

姉なら。姉であった人ならば、と少女は考える。
　――――あの人は『先輩』と同じく、キレイで輝いている人だから。ついて行こうと思えばついて行ってしまうし、ひょっとすると自分が連れ出してしまうかもしれない。あの人ならば、それが出来てしまう。だからあの人は問題ないのだ。

あと少しで、全ての皿を並べ終わってしまう。だというのに、誰も戻ってこない。主は時々バイトで遅くなるとはいえ、これほど遅かったのは――――聖杯戦争の頃だけ。そのころからずっと、少女は今のように日常を手伝うことしかできなかった。少女だけがずっと、こうして手伝いを続けてきた。

ふと少女は気付く。自分だけというものが、少女にもあることに。それはいつも当然すぎて気付けないこと。当然のようでいて、きっと難しいこと。
　それを誇れるような自信は少女にない。少女自身にとっても当然のことだったから、それが誇らしいことだとは微塵も思わない。ただ、自分にはできることがあるかもしれない。そう思っただけで、少女は未来が開けた気がした。

――――わたしはいつまでもここで待っていよう。いつか帰ってきた時に、先輩が寂しさを感じないように。

もし遠くに行ってしまえば、『先輩』は二度と帰ってこないだろう。そう思いながら、それでも少女は決意した。先輩が帰ってきた時におかえりなさいと言えるよう、ここで待ち続けようと。
　それは意味のない、ちっぽけな決意。だが少女にとっては大きな意味を持った決意だ。

――――必ず、おかえりなさいの一言が言えるように。

それは少女にとって、ただ一つの望み。いつも暖かで輝いていた場所を守り通そうという、小さくも難しい願い。決してその想いが報われないとしても……少女にとっては十分、寄る辺となる希望だった。

ガラガラと、玄関の引き戸が開かれる音。静寂は突如打ち破られ、少女の孤独もまた破られる。
　『先輩』だろうか。ほんの僅かな、瞬き程の間に少女の心は目まぐるしい変化を起こす。期待と不安。きっと帰ってきたのだと思う心と、違う誰かではないかという不安。それらが交互に走り抜け、少女は動きを止めた。
「ただいま……って桜、まだ待っててくれたのか！？」
　玄関から驚いたような声が聞こえる。間違いなく、『先輩』の声だ。

――――先輩が、帰ってきた。帰ってきてくれた！

それだけで少女は安堵できてしまった。決意はしても、覚悟なんてできてない。できるはずがない。

帰ってきてくれたというその事実だけで少女の心は満たされる。この場所が今日も守られたということに、『先輩』がいてくれるということに。当たり前のようで決して当たり前ではない、平穏な日々。それが続いてくれることにただ感謝の念を覚え、少女は……いつの間にか、涙を溢れさせていた。
　少女の心に暖かいものが満ちる。それはこの屋敷で、多くの人が育んできた暖かさ。いつかきっと、ここから離れてしまう暖かさでしかないかもしれない。でもそれは今、ここにあり、少女の胸の中にある。
　そうしてみるとああ、廊下を駆ける足音さえもなんだか暖かい。

「ただいま桜、遅くなってごめんな……って桜？　泣いてるのか？」

少女は『先輩』の驚きを無視して微笑んだ。それが少女の、したいと願うことだから。ほほを伝う暖かいものを無視し、胸の奥にしまった悲痛な決意も隠して、少女は精一杯の笑顔を作る。少しでも自分がもらったもの、嬉しさを表現できるように。それが少女の今できること全てだった。

そして少女は喜びを精一杯込めて、挨拶の言葉を口にした。

「おかえりなさい、先輩」