DUMB
手が離せないから、少し待っていて。 銀の髪の少女に、素っ気無い声音で、そう告げられて通された部屋は、今はもう使われていないようだった。 窓が小さく、日の光の入りにくい室内は、日中に在っても少し薄暗い。 さして広くもない、がらんとした部屋の中心に、ぽつりと、見捨てられたかのような風情で置かれているローテーブルとソファは、使い込まれた色合いで、古びていた。 重いそれらを動かせば、きっと、床に敷かれた絨毯に、跡が残っている。 手垢と汗が布地に染みて、時には血が落ちたことがあったのかもしれなくて、目には見えなくても確かな歳月を存分に吸ったと分かる家具に、これまで、幾人の手が触れたかは分からない。 手入れはされているが、新しくはなく、一目で古いと感じる。 そういう空気が、室内には漂っていた。 バゼットは、ソファに座って、何気なく、周囲を見まわした。 本当に、冷たいくらいにがらんとしていた。 テーブルとソファ以外には何も置いていない。時間の経過で色が変わった壁と天井、近いうちに建物すべてを改修する手はずになっていると、教会の現在のあるじは言っていたから、今は、ここに置いてあった荷物を少しずつ処分している最中なのだろう。 教会の一室、今は使われていないらしい場所に、生活の気配はなかった。 ただ、時折、鼻先を掠める匂いで、かつてこの部屋を使っていた人物の面影が、かすかに過るようだった。 「……。葡萄?」 ため息のような声で、バゼットは、小さく呟いた。 確信は抱けない。確かに、とは言えない。使う人間が居なくなって久しいであろう、誰かの不在の一室に残ったそれは、あまりにもかすかで、目を凝らせば消えてしまう海上の蜃気楼のようでもあった。 しかし、嗅覚に、そっと触れてくるその匂いは、酸い葡萄の匂いであるとバゼットは感じた。 瑞々しくはない。 けれど、椅子と机しか残されていない、生活の気配が消えた、ほぼがらんどうの冷たい部屋の中でも、薄く漂う残り香だけで不思議と体温があるような気がした。 もう、ここには居ない者が残した、かたちにならない、やがて消えてしまうもの。 確証はなく、それが彼が残したモノである確信は一向に抱けないままだったけれど、やはりそれは、そうなのではないかとバゼットは思った。 何となく。 日本語は便利だ。言い表せない感覚までもを、容易くことばにできてしまう。 それにしたって、何となく、だなんて、ずいぶんと曖昧な言い様である。 自分に向かって苦笑したいような思いで、バゼットはソファから立ち上がった。 教会の主であるシスター、カレンは、未だ姿をあらわそうとしない。波打つ銀の髪は揺らめかず、足音も聞こえないので、それを良いことにしてバゼットは室内を歩いていった。 褪せた絨毯を靴底で踏みしめて、一歩ずつ、足を、前に出す。 特に見るようなものがない、殺風景な部屋の中を見まわしながら、ゆっくりと歩いた。 「ワインが好きだったんですか?」 答える者のない問いかけを、己以外に誰もいない室内に向かって投げた。 返ってきたのは静寂だった。 投げ出した声は行き場なく、呆気なく中空に消えた。 木樽に閉じ込められた、薄い、果実酒の匂いの出所は見当たらなくて、コレはやはり部屋全体に染みついているモノだと判断する。 かすかにでも、こんなふうに、後々まで残ってしまうのは、よほど好んでいたのだろう。 言峰に会うのは荒んだ戦場ばかりでだったので、彼がくつろいで酒を飲んでいる姿を想像すると、つい首を傾げたくなるような、それでも納得できるような、どこか不思議な気持ちになった。 バゼットは小さく肩を竦めると、廊下に通じる扉の前で、足を止めた。 くるりと振り向いて、その場から、室内を見渡す。 狭い部屋だった。四方に壁が迫っているようで、息苦しい印象さえ受けた。 視界で注意を引くモノは、テーブルとソファだけだった。 薄暗い中でも、磨かれたと、艶やかな光沢が知れる低いテーブルの上には、バゼットが持参した花束が無言で横たわっていた。 花は白菊で、花屋の店番をしていた婦人に、墓参りをするのだと告げて、選んでもらった。 バゼットがいつもどおりに身にまとった、暗色のスーツの、空虚を孕む左袖に向かって、どこか痛ましげな目をした婦人は、丁寧に花を選んで、白い紙で丁寧にそれを包装した。 そんな花束を右手に下げて、バゼットは教会まで歩いてきた。 頭上は良く晴れていて、抜けるような青い空が、見上げると清清しかった。 物騒な職業柄、いつ死んでもおかしくないという状況に置かれていた頃には、いつかは彼の墓前に花を供する日が来るのではないかと、考えたこともあった。 現実、いざそうする日が来るとなると、やはり不思議な気分だった。 「恨んでいない、などとは、もちろん、口が裂けても言いませんが」 誰もいない部屋に向かって、何とはなしに、本音を言った。 切りそろえた赤毛の下、上着に包まれた、左腕の在るべき場所には何もない。裏切られて不意打ちを食らわされて体の一部を奪われたのだ。裏切った彼のことも不甲斐ない自分自身も今でも腹が立つ。憎らしくなければおかしい。 思い出すだけで胸が痛む。 それでも、バゼットの呟きは、取り乱しもせずに平坦だった。 静かな声で、静かな表情で、テーブルに乗った白い花束を見つめた。 ソファにふかぶかと腰掛けて、ひとり、手酌でワインを飲んでいる、言峰綺礼の姿を想像してみた。 想像するのが難しいような気がしたけれど、その光景は、案外、すっと心に入った。 堅苦しい法衣をまとった神父は、いつもどおりの、光のない亡者のような昏い目で、テーブルに置いたグラスを黙って眺めている。 怒り肩のボトルから注がれる葡萄酒は、とろりとした血のように、濃い色をしている。 バゼットは唇を引き結び、再び足を踏み出して、つかつかとソファに近づいた。 そうしてから、ソファの背もたれに右手を置いた。 想像はもちろん想像でしかないので、バゼットが立っている今、ソファは無人で、座っている人間なぞどこにもいなかった。 それが少しだけ、ほんの少しだけ、つらかった気がして、項垂れたバゼットは唇を噛んだ。 今はもう亡い、かつての腕があった場所に、まぼろしのような痛みを感じた。 雪崩れた短い赤毛が、頬近くをさらりと掠めた。 「バゼット」 その時、不意に名前を呼ばれて、弾かれたようにバゼットは顔を上げた。 声のした方向にあわてて首を曲げると、音も立てず、いつのまにか開いていた扉の隙間から、木の洞からひょっこりと頭を出す動物の風情で、修道女の幼げな顔が覗いていた。 内心を読ませないつくりものめいた金色の双眸、ばちりと、目が合う。 白く華奢な指が、重苦しい色合いの扉を、閉まらないよう支えていた。 波打つ髪が空を撫でていた。 「あ……」 あわてる必要などなかった。やましいことは何もしていないはずだった。 しかし、どうしてか、嫌なところを見られてしまったと、バゼットは咄嗟に思った。 喉の奥で弁解がつかえる。 「い、いつから、そこに」 「貴方がソファから立ち上がったところからね。足音が聞こえたから、てっきり、私を迎えに来てくれたのかと思ったのだけれど」 「来ていたのなら、声くらい」 「かけようと思ったわ。でも、取り込み中みたいだったから」 「……」 彼女はどうやら、辺りをうろつきながらぶつぶつと独り言を言っているバゼットの姿を、扉の影から、ずっと観察していたらしかった。 隙間から室内へするりと滑り込んだカレンが、開いた扉をそっと閉めた。 脚に触れる法衣の裾が揺らめいた。 そしてカレンは、立ち竦むバゼットに体を向けると、小鳥が囀るような声音で。 「どうかしたの? バゼット」 首を傾げてくすりと笑みこぼし、面白いものを見たとでも言いたげな、いかにもそんなふうに言うものだから、バゼットはつい赤面してしまった。 「彼の遺体は、見つからなかったそうよ」 案内された石碑の前に立って、手を組み祈りを捧げてから、カレンはそう言った。 右手に花束を捧げ持ち、バゼットは、カレンの背後で彼女の言葉を聞いた。 「どれだけ捜索しても見つからなかった。けれど、聖杯戦争の関係者の話では、言峰綺礼の死亡は疑いようのない事実みたいね」 「遺体がないままで、墓を立てたのですか」 「この地で彼が没したのなら、たとえ空っぽでも、こうして墓を立てるのは、そう無駄な行為ではないと思うのだけれど」 「それで、彼の魂は安らぐのでしょうか」 「いいえ。弔いとは、あくまでも、生きている人間が死との折り合いをつける為の儀式です」 「随分と冷徹な意見ですね」 「だって、死ねば痛みも苦しみもないじゃない。それに痛みを感じるのは、生きている方だけよ」 常のとおり、淡々とした事務的な口調で、カレンは言った。 真新しい墓の前に立ち、組んだ手をほどいたカレンは、背後のバゼットに振り返ることはせず、横に一歩だけ移動した。 バゼットは前に出て、目前の墓標を見下ろした。 黒光りする四角い石に刻まれているのは、土の下に不在である死者の名前と、生年から没年へと至る数字と、たったそれだけ。 他には何もなかった。 ふと、古びた部屋に染みついた、ワインの残香を思い出す。 直ぐに消えた。 バゼットは、黒い土で汚れるのも構わず、殺風景な墓の前に両膝をついた。 首を横に曲げて、カレンは、跪いたバゼットを見下ろした。 「それにしても、自分を殺そうとした男の墓参りだなんて」 物好きね、と、呆れたようにカレンは言った。 墓から視線を外さないままで、バゼットは、カレンの言葉に返した。 「ええ。自分でも、こんなことをしようと思った理由が、良く分からないままです」 「憎くはないの?」 「憎いですよ、もちろん」 正直な気持ちだったから、それをそのまま口にした。 そしてバゼットは、視線を下げると、右手に持っていた白菊の花束を、墓の前に置いた。 墓前に並んだふたりの頭上には、染みひとつない、きよらかに青い、抜けるような空が、どこまでもどこまでも果てなく広がっている。 バゼットは、跪いたままの格好で、立ち上がろうとはせずに、己が供えた花束をじっと見つめた。 花をくるんだ白い紙が、ゆるやかに吹く風を受けて、かさかさと、乾いた音を立てた。 鮮やかな緑の葉をところどころに覗かせて、細い、幾重の白い花弁が震えた。 「馬鹿ね」 真摯な眼差しで、黙って、墓を見据えるバゼットに向かい、カレンがぽつりと呟いた。 「泣きたいのなら泣けば良いのに」 「生憎と、泣きたい思いよりも、ここで今すぐこの墓石を叩き壊したい気持ちの方が勝っていますね」 「死者に八つ当たりしたって何にもならないわよ?」 「分かっています。ご心配なく」 誰もいない墓を叩き壊したところで何もならないというのは、言われるまでもなく分かっていたので、素っ気無い口調で返すと、バゼットは口を噤んだ。 どうあれ、全ては、終わったことでしかなかった。 対話の続きは永遠に失われたのだ。 カレンは人形のような無表情で、眼下に在るバゼットの横顔を見つめていたが、それ以上、何か言おうとはしなかった。 蜘蛛の糸のような銀色の髪が、風にあおられて舞い上がった。 それを押さえようとして上がったカレンの腕に巻かれた包帯は白くて、白すぎる肌の上で、今にも明確な境界線を失ってしまいそうだった。 金の瞳を閉ざして、ため息を吐く。 黒い法衣の裾がはためく。 スーツの袖が風を孕んでたよりなく揺れた。 バゼットは、知らないうちにいつのまにか死んでしまった男の墓を、赤みがかったガラスのような、日の光を透かす双眸で、じっと、見据えた。 きっとここには二度と来ない。 これで本当にさようなら。 言葉にはせずに、そんなことを思った。 やはり、ほんの少しだけ痛いような気がしたから、顔を俯けて、薄く笑んだ。 物言わぬ墓前に並んだ、ひとりの女と、ひとりの少女の頭上を、透明な風がさっと吹き抜けていった。
by H
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