ダメットさんのハローワーク
その求人広告に応募してみようとバゼットが思ったのは、広告欄の隅に急募と書かれた文字が目に付いたからだ。 肝心の仕事内容は「事務一般」とある。これまでのバゼットなら間違いなくその一行でこの仕事は候補から削っただろう。 バゼットは座っているよりも体を動かしている方が好きだったし、当然仕事もそうしたものを選ぶつもりだった。事実、バゼットがこれまで面接を受けてきた仕事は体を動かす類のものがほとんどだ。ただ座って机に向かうだけというデスクワークが自分に向いているとは思えない。 けれど職探しも二ヶ月を超えると色々と考えることは多くなってくる。 このままでいいのかとか、贅沢を言っている場合ではない、とか。 焦る理由はないのだ。 住むところはすでに確保しているし、当座の生活費に困っているわけでもない。 けれど「無職」という二文字の重みはバゼットには耐え難いものだった。それに面接に出向き「今回はご縁がなかったということで」なんていう日本人特有の曖昧な拒絶も、聞いていて楽しいものではない。何より不採用との連絡を受けるたびに、自分の全人格を否定されているような気になってくる。 それはとてもつらい。 だからバゼットは早く仕事を得たいと望んだし、そうなるように最大限の努力を払ってきた。この広告に目を止め、当初の予定を変更してまで連絡先に電話をかけてみたのも、そんな努力の一環と言える。 首尾は上々だった。急募と書かれた言葉に偽りはなかったのか、簡単な面接を行っただけでバゼットはあっさり採用を言い渡された。 「本当ですか?」 思わず聞き返してしまったバゼットに人事担当者は苦笑を浮かべる。 「こんな嘘をついても仕方ないでしょう。貴方は言葉も敬語もしっかりしているから、問題はないと思うわ。それで、早速だけどいつから来てもらえる?」 「いつでも平気です。今日からでも、明日からでも」 「さすがに今日は無理ね。こっちの受け入れ体制が整っていないわ。最初に研修も受けてほしいし、来週の月曜日からでどう? 月曜日は一日簡単な研修を受けてもらうことになるけど」 「異存はありません。よろしくお願いします」 「こちらこそ、よろしく。それから、最初の一ヶ月は試用期間になります。特に問題がなければそのあとで正規採用ということで」 そんな話をしたのが先週の木曜日。そして翌月曜日となる本日、バゼットは緊張した面持ちで同じ場所へとやってきた。研修の内容は敬語の使い方や電話の取り方などなど。これは特に問題もなく終了した。 そしてさらに翌日。まずバゼットが教わったのは電話の応対だった。取引先からかかってくる電話を取り次ぎ、担当者がいなければメモを残すか折り返しの確認をする。それだけのことが、予想以上に大変だった。 バゼットが不慣れなせいもあるだろうが、相手の名前を聞き取ることが意外に難しい。特に似た名前の担当者がいればなおさらだ。しかも電話はほとんどひっきりなしにかかってくる。デスクワークとは存外忙しいものだったのだと、バゼットは驚きと共に思い知る。 「ちょっといいかな、バゼットさん」 声をかけてきたのは先ほど電話を取り次いだばかりの相手だった。時刻はそろそろ正午になろうかというところ。 「は、はい、なにか?」 ミスでもしてしまったかと体を固くしながらバゼットは振りかえる。 「いや、そんなに固くなる必要はないんだけどね。さっきの電話、A社の加藤さんだったから。聞き取りづらかったら聞き返していいから、正確に頼むよ」 どうやら相手の名前を間違えて伝えてしまったらしい。 「あ……はい、すみません。気をつけてはいたのですが」 「似た名前の人もいるし、間違えやすいかとは思うけど気をつけて」 やはり私はこの仕事に向いていないのかと、そんな弱気な自分を叱咤して、バゼットは「気をつけます」ともう一度頭を下げた。なにせ今日はまだ初日、ここからしくじるわけにはいかないのだ。 ここまでは特に大きな失敗もない。このまま試用期間の一ヶ月を乗りきり、何とか本採用にこぎつけたいところだ。これからはさらに慎重にいかなければと、自分に言い聞かせたところで午前中の仕事が終わった。 そして午後の仕事を開始してしばらく経ったころ、その電話はかかってきた。 「○○の……トウと申しますが、□×さんいらっしゃいますか?」 カトウなのかサトウなのかそれともサイトウなのか。微妙なところでよく聞き取れない。さらに言えば社名すらもあいまいだ。電波の状態が悪いのか、雑音が多くてよく聞き取れないのだ。 けれどさきほど名前を間違えて取り次いで、それを注意された以上、同じ轍を踏むのは避けたい。ここはやはり言われた通りに相手の名を確認するべきだろう。 問題ない。こんな時に何と言えばいいのか、きちんと昨日の研修で教えてもらった。 「……」 それなのに緊張のなせる技か、習ったはずの言葉が出てこない。こちらの沈黙を怪しんだのか、電話の向こうの声はいぶかしげな響きを帯びる。 これ以上、沈黙していることはできない。とにかく、何か話さなければ。そして相手の名前をしっかりと確認しなければ。 それだけを思って、バゼットは気を落ちつかせるように大きく息を吸い、その言葉を口にした。 「……何様ですか?」 三日後、礼の洋館の一室には難しい顔をして求人情報誌を眺めるバゼットの姿があった。
by 未烏
ダメット好きです。 でも対決で見せたようなかっこいいバゼットはもっと好きです。
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