他に何もない
夢を見た。泣いている女の夢。泣きながら、女は何事か呟いて、確かに葛木はそれを聞いたのだが、目覚めた時には忘れていた。 繰り返されるその言葉が助けを乞うようだったことだけは、はっきり覚えているのだが。 なくした夢の断片は、思いがけず拾うこととなる。 放課後の職員室。教師の姿もまばらになった頃だ。テストの採点をしていた葛木の背に、声がかかった。 「あれ、葛木先生。まだ帰られないんですか?」 帰る。 その言葉を耳にした瞬間、靄が溶けるように霧散する。思い出した。夢に出てきた女は、こう言ったのだ。「帰りたい」と。喚くでも叫ぶでもなく、ただ静かに泣きながら。 女。メディアと呼ばれていた。 「葛木先生?」 返事がないことを訝ったのだろう。先程、声を掛けてきた相手――藤村大河が不思議そうに覗き込んでくる。 「すみません」 「いいえー。あ、テストですか」 「はい」 答えながら、腕時計に視線を映す。資料室はまだ、開いているだろうか。 ――サーヴァントは、基本的には生前何らかの功績を残し、死後伝説となって人々に語り継がれた人物です。 初めて会った夜、女は自分の存在を、葛木にこう説明した。ならばおのずと答えは判る。本棚、一番取り易い位置にある本へと手を伸ばした。神話関係の本が置かれている棚である。ページをめくり、目的の名前がないことを確認すると、本を元に戻してその隣のものを手に取った。それを繰り返す。 メディア、という名前が目に入った所で、葛木は手を止めた。本は、ギリシャ神話であった。 女の故郷だ。帰りたいと、女が言った場所が其処にあった。――ただし、紙の上に。 どうすれば女は帰れるのだろう。葛木は考えた。だが出た結論は、少なくとも、葛木がそのために出来ることは何もないということだけ。例えば出国し、女を連れて彼の地へ行くことは出来るかもしれないが、そこはもう彼女の知る故郷ではない。ならばあの夢は、助けを乞うかのようなあの夢は一体なんだと考えた時、葛木はようやく気付いた。自然、口から答えがこぼれ落ちる。 「聖杯……」 そうだった。聖杯はあらゆる願いを叶える奇跡の器だと、言ったのは他ならぬ彼女ではなかったか。あらゆる願い。ならば過去を辿り、女を願った場所に帰すことなど、造作もないに違いない。 資料室を後にする。既に、葛木の在り方に矛盾が起きていた。そう、例えば夢の女の故郷など、気に留める必要が何処にあったのか。あったとて、調べずとも本人に聞けばすぐ判る疑問だというのに。 そうしなかったのは、きっと女は訊かれたくないだろうと考えた、他人に関心を持つことのなかった葛木が、女の気持ちを慮ったから。 死んだ心に、小さな波紋。それは気付かぬうちに進み、気付かぬまま終わる。 順調に進んでいた聖杯戦争は、しかし唐突に幕を閉じた。 葛木に向けられた剣の雨。不意を突いても、女を狙えば感づかれる。だが葛木を狙えば、必ず女が庇うと、弓兵は果たして予見していたのか。 もしそうなら、読みは的中したことになる。魔術を展開する余裕などありもせず、女は身一つで葛木を守りきった。 体が、くず折れる。 ――裏切ったか。 葛木は女越しに、弓兵を見上げた。信を置いていた訳ではない。そもそもこれは戦争なのだから、裏切った弓兵に文句はない。ないが、何故だろう、喉が焼けたように僅か痛んだ。その痛みは、血まみれた女が自分に向けて手を伸ばし、頬に触れたことで更に増した。 そんな葛木の胸の内など知る由もなく、赤に染まった女は泣きそうな顔をして微笑んでいた。細い声で、言う。 「でも残念です。やっと望みが、見つかったのに」 「――悲嘆することはない。おまえの望みは、私が代わりに果たすだけだ」 女は死んでも故郷へは帰れまい。だが女が死んだ後、葛木が聖杯を手に入れ、願えば良いのだ。時間を越えて願いは届き、女はきっと帰れるだろう。だから案ずることはない。そう言ったつもりだった。 「それは駄目でしょうね」 だというのに、女はゆるゆると首を振った。笑みは一向に崩れる気配がない。 「だって、私の望みは――さっきまで、叶っていたんですから」 声の余韻もそのままに、葛木の目の前から女の命は溶けて消えた。不可解な言葉を遺したまま。 落ち着いて考えれば、女の真意は簡単にはかれた。女の望みは葛木の思うそれとは違うのだと。だが葛木は矛盾に気付くことなく、ただ眼前の敵を倒すべく、弓兵を見据えた。葛木がいつもの冷静さを、失っている証拠だった。 一歩進み出た葛木を、驚いたように衛宮が引き留める。 「待て。どうして続けるんだ葛木。戦う理由はないはずだ」 「戦う理由などない」 「なら」 女は死んだ。けれど、死んでも女は帰れない。ならば、葛木の成すことは一つ。 「だが、途中でやめることなどできない」 葛木は諦めない。だが、結果は火を見るより明らか。女の加護なく、サーヴァントに人間が勝てる道理はない。 葛木は最期まで女の本当の望みを知ることが出来なかった。女は葛木の心に変化を起こしたことなど思いもよらなかった。そう考えれば、互いの想いは最期まで、通じることがなかったと言える。 だが、葛木は魔術師ではなく、女はこの世の者ではなかった。決して交わらない筈の時間軸において、二人が出会ったこと。それが互いにどれほどの幸福をもたらしたか。有限であった短い時間に、幸福は無限にあったのだ。 他には、何もない。
by かさね汐
お寺の夫婦の順位維持を願って…!
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