"Re:prologue." by ＮＫ

『夜が怖い』、と彼女は言った。

Re:prologue.

日差しが、赤く廊下を差している。
それが、どこか心の隅をつつくような気がした。
そう、まるで濡れた血のようだったから。
背の高い美貌の女性を思い出し、ぶるっと身を震わせた。

「ふぅー……十一月だってのに寒いねえ。このまま氷河期にでもなっちゃうんじゃないの？……って、んなわけないか……」

思わずそんなことを、私―――美綴綾子は一人つぶやく。
事実、自分以外誰一人見当たらない廊下はしんと冷えてきている。
冬木市は西日本だが、冬の冷え込みはそれなりに厳しい。
右ポケットの中で温まりかけのカイロだけでは対抗すべくもない。
　長く伸びた自分の影を追うように、自分の足音のみが響く廊下を歩く。
学校指定のコートと、お気に入りのバーバリーのマフラーでぎゅっと身を固めると、少しばかり寒さも緩んだ。
両手をポケットに突っ込むのも、見栄えがよろしくないけれど、この際見逃していただきたい。
きゅっきゅと上履きを鳴らして、目的の教室の前に小走りでたどり着く。
引き戸に手をかけ、一気に開くと―――

「……ぅむ？」

―――そこには先客が居た。

◇

「何だ、氷室か。脅かすなよ」

「む……いきなりご挨拶だな、美綴嬢」

窓際にひっそりとたたずむ後ろ姿はまさに大和撫子。
凛とした佇まいは、女性である私でもはっとせずには居られなかった。
彼女は、一瞬ちらとこちらを見たが、すぐに視線を窓に投げかけた。

「いや、普通驚くだろ。クラスメイトじゃない人間が教室に居るんだからな」

「ああ、そういえば君はこのクラスだったな……」

振り向きもせずにそういうと、彼女―――氷室鐘はまた窓の外をじっと見つめなおす。

「……他人様のクラスで黄昏れるとはいい趣味とは思えんぞ」

「―――む？ああ、これは別に黄昏れているわけではないのだが」

そこで、初めて彼女は振り向く。
夕日に照らされた長髪が、さらりと音を立てた。

「これだ」

彼女の眼鏡がきらりと夕日を返した。
その手の中にあるのは―――

「―――スケッチブック？」

そして、そこに描かれているのは―――

「……そりゃひょっとしなくても蒔寺か？」

「うむ、確かに蒔の字だが」

いや、確かに一見で分かる上に、躍動感溢れて今にも走り出しそうなほどそのラフ画は上手いのだが―――

「……こう言っちゃなんだが、綺麗だな、その絵は」

思わず私はそう漏らしていた。
普段の蒔寺楓とは比較にならないほどその絵は美しい。

「お褒めに預かり恐縮だが、所詮素人の手慰みだ」

「いや、これはそういうレベルじゃないだろ……って、そうじゃなくて、絵も綺麗なんだけど、蒔寺があんまり美人なんでな」

そういうと、彼女は心底不思議そうな顔をした。

「ぅむ？蒔の字は十分に美人だが。もっとも、君や遠坂嬢と比べれば見劣りするかもしれないがね」

「……珍しいな。氷室の冗談を聞く日が来るとは」

「まあ、審美眼というものは人それぞれだからな。蒔の字が美人というのが頷けぬのも理解できるつもりだが、あれでも黙って和服を着ていると絵になる女だぞ」

事実、穂群原の猫科珍獣（虎と黒豹）は和服美人だとかそうじゃないとか。

「いや、まあそれは知ってはいるんだが……私と遠坂を同じレベルに並べるのはね。あっちは何せ我が穂群原学園の誇るアイドル様だぜ？」

彼女はまた、不思議そうに首を捻る。

「先ほども言ったが、それは個人の審美眼ではないかな？そもそも……」

「……あー、そっちはまあいいとして。あそこで嬉々として後輩追っかけてる黒豹を待ってるわけだな？」

「黒豹というよりは狂犬だが。まあ、そういうことになる。部活も引退したというのに、あれは蒔の字の酔狂だな。それでこうやって暇潰しをしているというわけだ」

そういって、また再びスケッチブックに鉛筆を走らせ始める。
次第に濃くなる絵の輪郭が、さらに夕日の陰影を濃くしていく。

「で？またなんでうちのクラスで待ってるんだ？」

彼女のクラスは隣だ。
待ち人である蒔寺も同じクラスのはず。

「ああ、それはだね、アングルの問題だよ」

「アングル？」

「うむ、私のクラスからでは夕日が上手く絵に生かせないのでね。もっとも、無断で他所のクラスに不法侵入したのはよろしくないのだろうが」

―――どこが素人だ、そんなことを知ってる素人がいるものか。
そんな突込みが喉まででかかったが、すんでのところで留まった。

「では、美綴嬢は？」

「ん？」

相も変わらず、こちらに視線を投げかけもせずに彼女が問う。

「君は一度帰宅したのだろう。何故わざわざ再び戻ってきたのだ？」

「ああ、それか」

私はいつも自分が使っている机に腰掛けると、ごそごそと机の中をまさぐり、目的だったモノを手に取った。

「なるほど。辞書を忘れたから取りに来たのか」

「よく分かるな、こっち見てもないのに」

スケッチブックに視線を落としたままだ。
眼鏡越しのその表情は、ちょうど影に入っていることもあって分からない。

「窓越しに見えたものでね」

「そうかい。わたしゃどうも受験生って職業にゃ、まだまだ慣れてないみたいでね」

「……奇遇だな、私も本来なら勉学に勤しむべきなのだろうが……」

それきり、彼女は納得したようにまた絵に没頭しだした。
鉛筆を紙に走らせる音だけが、静かに教室を満たしてゆく。

「……あー、そういえば氷室。合宿のこと覚えてるか？」

「合宿？ああ、先月柳洞寺で有志で行ったあれか……無論、覚えているが？」

「うん。そのときに、私が話した怪談なんだが―――」

―――そのとき、私はどうして氷室にそのことを話そうと思ったのか。
温まりかけてきた話が途切れるのが嫌だったのか、それとも、慣れれば意外と口の回る氷室ともっと話がしたいと思ったのか。
とにかく、私はあの話を彼女にすることになったのだ。

「―――あの時話した怪談だが、実はまだ続きがある……というより出来たんだ」

「ほう？出来たということは……行方不明だった男性が遺体で発見されたのかね？」

氷室は、興味深そうな顔をしてこちらに向けて座りなおした。
スケッチブックはすでに閉じられている。一応の完成を見たのだろう。

「……いや、男性もその遺体は発見されてないんだが……あの部屋に新しい住人が入ったんだよ」

「なるほど。あの話ほどではなくとも、十分不気味な部屋だからな。しかし、それだけでは怪談の続きにならないと思うのだが？」

「まあ、そうだよな。でも、それだけじゃないんだ―――」

◇

新都玄木坂四番地、蝉菜マンション十一階二号室。
そこが件の部屋だった。
向かいの一号室での一家心中、それにつられるようにしての青年の失踪。
以来、十一階は住人なき空間として沈黙を守っている。
　一家心中の凄惨な舞台となった一号室はともかく、二号室のほうは青年が失踪しただけである。
業者もいつまでも部屋を遊ばせておくわけにはいかず、他よりも価格を下げて分譲した。
しかし、それでも住人が入ることはなかった。
いや、住人は入ることには入るのである。
しかし、入って数日も経つと……

『何か部屋の中に潜んでいる気がする』

『夜になると玄関から何か物音がする』

『この部屋に入ってから夜眠れなくなった』

などと言い残して、皆部屋を去っていくのである。
そんな不気味な部屋に、今日も新たな住人が入ることになったのだった。
　その風貌、眉目秀麗。
短く刈った髪が、ピシッと着こなすスーツによく映える。
―――ただ。少しばかり不釣合いに大きいイヤリングと、　　
右手のみの隻腕が、違和感の原因だったが―――

◇

「ふむ、不動産業者はずいぶんと脅してきましたが、いい物件ではないですか」

窓を開いて外を見る。
眼下には、冬の足音が近づく街が写る。
今より一ヶ月前、同じ四日間を繰り返し続けた日々。
記憶にあるはずもない出来事が、次々と脳裏をよぎる。
この、見慣れぬ、けれど懐かしい街を。
そして、彼女と常に共にあったあのサーヴァントを。

『さあ、聖杯戦争を続けよう、バゼット』

今も懐かしい幻（コエ）。
左手という体の一部を失ったというのに、私は今までよりもずっと強い充足感を感じている。
それはきっと―――

「……家具も何もないので殺風景ですが。でも、ここからの景色からなら、貴方も喜ぶでしょう」

窓枠に、そっと白い花のパズルを飾る。
それは、凡百で、それでも唯一で。
どこにでもあるのに、もう手が届かないもの―――

「―――、こんなことで感慨にふけっていると、貴方はまたバカな女だと笑うのでしょうね」

もはや、コエはしない。
最良のパートナーを二度失ってさえ、私は立とうとしている。
……結局、あの森の洋館では、私が暮らしていくには思い出がありすぎたのだ。

「さて、義手の手配は頼んでありますから……まずは職探しですか。いつまでも他人を頼るわけにはいきません」

秋の空は高く。
移り往くときは儚く。
―――それが、例え一時のユメだとしても。

「さて、新しい生活を始め―――いや、続けましょう。今回こそは、私の勝ちです」

新しい日々の始まりは、長き述懐の終わり。
悩みながら、苦しみながら。
私が、始めて私らしく生きようとする日々が、始まろうとしていた―――

◇

「……とまあ、そんなわけなんだな」

「ふむ、流石に同じ場所に住まう人間の言うことにはリアリティがあるな」

氷室は私の話にいちいちもっともらしく頷くと、かすかに微笑んでみせた。

「まったく、よくできた話だよな……でもよ、この話はまだ続きがあるんだよ」

「ほう？」

「ほら、合宿んときにおまえんとこの三枝が言ってた話。洋館の人影ってヤツ。あれと、新しく入ったこの人が同一人物だとか」

「ふむ」

「挙句には、新都の空にかかる糸から降りてきた宇宙人だとか、な。さすがにここまで行くとどうかと思うが」
　
「……なるほど。確かに、そこまで行くと蒔の字好みのコズミックな話になってしまうな」

まったく、その通りである。
いつの間にか、空は藍色の占める割合が多くなりつつあった。

「と、すっかり話し込んじまったな。私はもう帰るけど、氷室はどうする？」

「……ふむ。もうこんな時間か。蒔の字もすでに走り終えたようだし、私も帰るとしよう」

二人で夜の闇が支配しつつある教室を抜け、廊下へと出る。
先ほどはあんなに不気味に感じたのに、先ほどよりもずっと気が楽だった。
仄暗さは先ほどより増しているのに。
氷室と共にいるから？それとも、あんな話をした後だからだろうか？

「……しかし、隻腕の美女か。ふふふ、美綴嬢、いいことを聞かせていただいた」

隣を歩く氷室が笑っている。
廊下は、ぽつんぽつんと非常灯の明かりに照らされていた。

「そうか？単なる暇つぶしの雑談につき合わせて悪いと思ってたんだが―――」

「いや、実に有益な話だった。ふむ、これは実に話し甲斐のあるネタだ」

そう言って、くっくっと笑っている。

「？そんな面白いネタだったか？」

「いや、そういうことではなく、な……もしかすると、君にも災禍が降りかかるかもしれんが……まあ、そのときのために前もって謝罪しておこう」

そう言うと、氷室はまた一人くっくっと笑っている。

「よく分からんが……まあ、そんときはジュースでも奢ってくれよ」

「うむ。その程度で済むのならいくらでも奢ろう……さて、私は部室によっていくのでここまでだ」

待ち人はそこにいるのだろう。
昇降口の手前で、私と彼女は別れた。

空はすでに星が瞬く時間になってきている。
東の空には、紅い月が顔を覗かせようとしていた。
空は暗いのに、気分はなぜか先ほどより晴れやかだった。
　ゆっくりと家までの道を歩く。
時折、吐く息が白くなった。
年が明ければ受験はもう差し迫ってきている。
先は見えないが、自分の未来に迷いはない。
ゆっくり、ゆっくりかえっていく。
ふゆのうたを、うたいながら―――

余談だが。
数日後、狂乱した穂群原の黒豹に自らが追い掛け回されることになろうとは、ついぞ知らない綾子であった。