"息子と父と。（切嗣応援SS）" by たてよこ

玄関に靴があったから、帰って来ているのは解っていたけれど呼びかけても返事は無いし、気配も無いので何事かと思ってみれば。

「――なんでさ」

士郎は、自室の畳の上で丸まっている養父をみてつくづく、そう呟いた。
己がよもや部屋を間違うなどという間抜けな真似を仕出かしたのでは無い事は明白だ。
だってその証拠に何度目を擦ってみても、調度の類も何もかも馴染み切った自室の物でしか無い。
ならば相手が間違えたのかと云えば多分、それも違う。
何故なら切嗣はいつもの寝巻き兼部屋着である浴衣をだらしなく纏った恰好だし、着ていた衣服が脱ぎ散らかされている事も無ければ鞄も無い。
彼は一旦己が部屋に入り、そしてわざわざ此処までやって来て横になっている――これは意図的な行動だ。
何の為かはさっぱり掴めないのだが。

（あー…そう云えば）

と、其処で士郎は、この家に来た当初の事――と云っても一年ちょっと前の事だ――を思い出す。正確にはこの部屋を自らの意思で選んだ時の事を。
『この部屋はね。夏は涼しくて冬は暖かい、この家の中で一番過ごし易い場所なんだ。良い眼をしてるね、士郎』
じゃあ何で爺さんが使わないんだよと問うと、『あんまり居心地が良くて此処から出たく無くなっちゃったら困るから』なんて云って。

『でもそうだなぁ、昼寝がしたくなったらこっそり、士郎にバレないように使わせてもらうかもね』

まるで、隠れんぼするから見付けてご覧？と誘い掛ける子供のように、悪戯っぽく笑っていたっけ。

暦の上ではそろそろ春を迎えようと云うのにまだまだこの街では冬の寒さが残存している。
身に染みるような冷たい空気を凌ぐには此処は打って付けだったのだろう。
（だったらちゃんと布団使えっての）
格子の嵌まった窓から差し込む陽光を精一杯肢体に受けようと丸まった姿勢。
少しでも暖かい場所を求めて身を休める、その行動はまるで猫のようだとちらりと思って。
（――にしても、えらく静かなのな）
その時、士郎は気付いた。
規則正しく流れ出るべき寝息、上下する胸の動きが気取れぬ事に。
ただ彼の周りだけ、時間が止まっているかのような静謐に覆われている事に。
「…爺さん？」
ああ、それは何処かしらあの――懐かしくも忌むべき風景を思い起こさせる。
「ッ…爺さん…！」
少し大きめに呼び叫んでも、応えは無い。言葉でも、所作でも。
「――…ッ」
まさか、と思いながらも士郎の焦燥は募り、肩から掛けた鞄を放り出して小さくなっている人の傍らに駆け寄った。
元々不健康そうな顔付き、身体付きである上に、切嗣は出かける度にいつも彼方此方に大小多数の怪我を負って来る。
――『終わり』が来た、とは思わない、思いたくないし考えたくも無いが、もしや怪我の具合がひどく悪くて意識不明だとか危篤だとか云われる状態に陥っているのかも知れない。
そう思うと居ても立っても居られなかった。
「切嗣ッ…」
揺さ振ろうと肩に手を掛け、相手がどんな状態か解らぬままそうするのは得策では無い――仮に頭を打っていたりするならばそれは命取りだ――と考え直して耳元に呼び掛けても反応は無く、不安に駆られて『兎も角鼓動だけは確かめよう』と、保健の時間に聞きかじった知識で頚動脈に触れてみれば。

「ン」
「…あ、…有る」

外気で、そして一気に失せた血の気故に冷たくなっていた指を厭うように、その時初めて切嗣が声を漏らして身動ぎした。
――生きている。脈は確かに打たれ、そして声も。
「…は、……良かっ…」
ほぅ、と心底安堵して士郎はその場に腰を落とし、ふにゅふにゅと音にならぬ言葉を呟きつつ再び深い眠りに陥ろうとする人の背に手を宛がう。

こうして触れていればじわり、伝わる温もりも脈動も弱まっている訳では無くしっかりとしていて、一刻前の心配がひどく馬鹿馬鹿しく空虚なものに感じられた。
「たく、心配させて」
寝るなら寝るで良いけれど、もうちょっと傍目に解り易い寝方が出来ないものかと八つ当たり気味にえいっと頬だの肩先だのを突付き回してみる。
あれだけ驚かせられたのだ、せめてこれくらいの腹いせは許して欲しい。
「俺だったから良かったようなものの、藤ねぇだったら卒倒モンだぞ」
第一発見者があのかしましい姉代わりなら、今頃この家には救急車が横付けされていたに違いない。
そう思ってくすくす忍び笑っていると。
「…ん……邪魔…」
咎めるようにひょいと肘が上がった。
身体の真裏まで腕を回す柔らかさは、鈍臭さの局地に居るような風体には少々見合わない。
一体何をするつもりなんだろう――そう訝る暇も無く。
「え」
びしぃっと。力一杯裏拳で打たれてしまった。
「ッ痛ェ！」
あまつさえ、上げた叫びを煩いからあっちに行けと追っ払うようにぶんぶんと頭の上で手が振り回される。
寄らば斬るぞ、そう云わんばかりの威嚇ぶりだ。
実は寝たフリをして起きてるんじゃなかろうかと思いたくなるような良い反応に、じんじん痛む手を摩りながら覗き込んだ顔はそれでも。
「って、寝てるし」
しっかと瞼を閉ざしたまま。
眠りの淵で何を思うのか、口唇は倖せそうな微笑みをうっすらと刻んでいる。
「――…まぁ…良っか」
妙にそれが得難いもののように感じた士郎は、軽く反撃を食らわせようかと一瞬固めた拳を解いて押入れに向かった。
幾ら日差しが温やかな紗幕を辺りに広げているとは云え、このまま放置して置けば早晩風邪を引くのは目に見えている。
後々看る面倒より、今焼く世話の方が絶対楽だろう。

だがしかし。

「…おい」
掛けてやった自分用の上掛けはほんの少しだけ養父には足りず、それが居心地悪いのか切嗣は又も何やら呟きながら、あっちにこっちにもぞもぞして落ち着きが無い。
「これじゃ、布団の意味無いじゃん」
云う間も肩が、腕がはみ出して、今にも布団から転げ出て行ってしまいそうだ。
「ったく」
本当は夕食の仕込みだとか朝干した洗濯物の取り込みだとか色々とやらなきゃいけない事はあるけれど。
嘆息した士郎は布団の右端を切嗣の身体の下に押し入れ、簀巻き状態に仕上げて
「…ぃしょっと」
ごろん、背中合わせに寝転んでその間に左端を挟み込むと、ぴったりと寄り添って隙間を埋めた。
切嗣の部屋から彼自身の布団を持って来れば、わざわざこんな事をしてやる必要は無い。
けれどその間、一人で放って置いたら。
目を覚まし、また何処かにぷいっと行ってしまったら。

（淋しいじゃんか）

自分も、そして切嗣も。
思い、もう殆ど空いていない距離を埋めるべく躙って後退すると。
ことり。
その心意気が通じたのか、大人しくなった切嗣はこちらの背に体重を凭せ掛けて。
「ん…あったか、…ぃ…」
安心したように呟きざま、また眠りに戻ったようだった。
「――…おう、温かいだろ」
今度は背と背が触れ合っているから、鼓動も、微かな呼気もちゃんと全身で聞こえる。
それに安心しつつ士郎は
（…やっぱ、猫みてぇ）
ちらりともう一度、考えた。

猫のような人だと思う。
決して先刻の猫パンチの如き裏拳や毛を逆立てるような威嚇っぷりだけでそう思うのでは無く、常からそう思う節はあった。

ふらっと家を出て、勝手気ままに彼方此方をうろついて、気が向いた時に帰って来て。
誰にも何にも縛られないんだよと見せ付けるように奔放に自由を謳歌している。
一見気を許しているように見せてもそれは上辺だけに過ぎず、こちらが幾ら本心を曝け出して向き合おうとも一定以上は踏み込ませない。
何を隠したいのか煙幕を張り巡らせ、深淵には――その心の奥底には絶対触れさせない。
大河は云うに及ばず、士郎にさえ。
誰かと一緒で無いと生きていけないような危うさ――色々な面で――を思わせるのに、独りを好む。
気遣われるのを厭うように、傷を負っていても自己申告は一切無く、何とも無い、大丈夫だと平気そうなフリをする。
そうして差し伸べられる手を全身で拒むように、震えて丸まっている。
そのクセ、こちらが気付かぬ内にうんと傍まで寄って来て、解り難く甘えてみせたりするのだ。
今みたいに。

（ただ単に素直じゃ無いってだけかも知れないけど）
思う。
いつか自分が大人になったら。
真から彼の息子になれたなら。
隠されたものがどんなものであれ、凡て受け止められるくらいの度量を身に付けたなら。
切嗣は猫のように在る事を止め、『人間』になってくれるだろうか。
その自由奔放さは無くならないまでも。
心の内に抱くものに触れ、共有したいという願いを許してくれるだろうか。
「…ま、始まったばっかりだもんな」
たった一年ちょっと。二人が『家族』として縁を結んでから経ったのは、ほんのそれだけの時間。
まだまだ自分達にはこれから先がある。
有限ではあるけれど、長い長い時間が。
何も焦る事なんて無いのだ。
ゆっくり、ゆっくりと歩いて行けば良い。

一緒に。
二人で。

「こゆ事も、ちゃんと正面切って云えるように、なるからな」
だから、待っていて。

祈りを込め、支え合うように、自分も相手の背に凭れ掛かる。
背骨と背骨のごつごつした処が擦れ合って痛いけれどそれは何処かしら甘く、倖せな痛みのように感じられた――ひとりでは絶対に得る事が無い感触だから。
打ち寄せる波のように穏やかに繰り返される呼気。
しんしんと緩やかに、煙るように漂う陽の光。
心と身体に満ち来る温もりは瞼を重たがらせ、士郎は兆す眠気にふぁ、と欠伸を零すと抗う事無く目を閉じる。
（いつか…絶対に、いつか、な。爺さん）

寄り添えば、遠のく冬の気配。
少年の夢に浮かぶはただ、やがて来る筈の春の色、香りに包まれた未来だけだった。