"美綴支援！" by TOLL

（あー。これ、どっかで聞いた事あるな。なんだっか蛇に睨まれたカエル？　ってアタシはカエルかい！　いやいやそうでなくてまずは落ち着こう。此所は誰で、ワタシは何処だ！）
「……はぁぁぁぁ～～～～」
　そこまで考えて美綴綾子は盛大にため息をついた。思考が完全にパニくってる。並みいる男達を向こうに回して引けをとらず、武芸百般に秀でたる身としては余りにも情けない混乱ぶりだった。
「どうしました？　アヤコ」
「ひゃいっ！！　…いえ、あの、なんでもないっ、なんでもないです」
　ここはライダーさんの目の前だった。あ、いやいや、そうでなくて衛宮ン家の居間だ。家に帰る途中だったアタシは、ばったりライダーさんに出会い『送りますよ』の一言で自転車の後ろに座った。
「しっかり捕まっていて下さい」
　一瞬にして突入した未体験のジェットコースターから解放されると、見覚えのある武家屋敷の前に来ていた。でも、そこは見なれた我が家ではなかった。
「今日はサクラもシロウも出かけていて誰も居ないんですよ」
と良くわからない理由で中に引きずりこまれた。思考が正常に再開するにはお湯がわいて、お茶が入れられるまでの時間を要した。

透きとおった渋みの中に感じる微かな甘み、宇治だろうか。上物のお茶をいただきながら向いに座る人を覗き見る。
　長く伸びた紫がかった長い髪を大まかに赤いリボンでまとめ、アタシよりも頭一つぶん高い長身を黒っぽい地味な服で包んでいる。にもかかわらず、その姿はまるで女神のように華やいでいた。その輝かしいまでの美貌の前では眼鏡さえも高貴なアクセサリーに思えてくる程だった。
　はじめて会った時から彼女は特別だと思った。後輩である間桐桜に紹介された時から、眼が離せなかった。
　そう、それ。
　彼女の姿を見るたびに感じる『それ』は同性としての嫉妬でも、その美しさに対する好奇心でもない。言葉に出来ない『それ』を感じるたびにドキドキと高鳴る正体不明の鼓動が胸の奥で響くのだ。
（おいおい、ライダーさんは女性なんだぞ）
　頭の隅で燻っている一つの結論が蠢き出す。どんな男を前にしても感じなかった感情。
（ありえない、ありえない、ありえない、アリエナイ、アリエナイ、arienai…）

「アヤコ？」
　我に帰ると心配そうな顔が覗き込んでいた。
「どこか具合でも悪いのですか」
「あ、スイマセン。ちょっと考え事をしていて…」
「？　それなら良いのですが…。お茶のおかわり、いかがですか？」
「いえいえ、どうかお構いなく」
「先に水分の補給をした方が…」
「は？」
「でも、体調に問題がないのでしたら、ちょっとくらい多くてもいいですよね？」
「あの、何の話…」
「もう少し、リラックスしていただかないと、味に影響が…」
「ちょっとまったーっ！」
「はい？　どうしました、いきなり立ち上がったりして」
　ライダーさんの瞳が私を捕らえている。
　ドキドキ、ドキドキ。
　胸の鼓動が早まる。
　ドキドキ、ドキドキ。
　背中を冷や汗が流れていく。
　ドキドキ、ドキドキ。
　もう、迷いようもない。これは、心の奥から発せられるこれは危険信号。いままでどんな相手を前にしても感じなかった感情『恐怖』。なぜ、どうして、ライダーさんみたいなきれいな女性が恐いのか。暗く澱んでいた意識の底から次第に明確になっていく理由。
（そうか…）
「ごめんなさい、アタシちょっと用事を思い出したので！」
　口に出した時には行動を起こしていた。そのまま振り向き襖を開けて、このまま走って玄関まで行って、走って、走って、走れば逃げられるかもしれない。この得体の知れないモノから逃げられるかも知れない。けれどそれは叶わない事だった。なぜならアタシの手と襖の間にはライダーさんが立っていたからだ。

「…また、吸うんですか」
「…また、思い出したのですか」
　紫の瞳と琥珀の瞳が交差する。
　そうだ思い出した。私がライダーさんを強く意識していた理由を。私は、彼女に、血を吸われたんだ。それも一度や二度じゃない。その度に記憶を消された、けれど。
「何故でしょうね、あなたはいつもこのタイミングで記憶を取り戻す」
「それは…」
　もうわかっている。人並み外れた美貌。振り向くより早く回り込める身体能力。吸血行為。全ての証拠が答えを肯定している。
「心が、体が教えてくれた。本能が訴えている。あなたは危険だって」
「そう、私は略奪者。私は毒蛇。私は伝説の魔物」
　薔薇の唇が舌舐めずりをする。
「あなたをむさぼる者」
　ライダーさんの瞳孔が縦に細まる。獲物を前にした獣の瞳。
　もう、立ってなどいられなかった。アタシは膝から崩れ落ちた。

（アタシ…、諦めてるのかな）
　すっかり脱力してしまっていたアタシの体をそっと仰向けにすると、ライダーさんはゆっくりと覆いかぶさってきた。大きく揺れる胸に押されて息を吐く。相変わらず、心臓は痛いくらいドキドキしているのに、ひどい立ちくらみにあった時のように意識だけが遠くなっていく。
　突然、ライダーさんがアタシの首筋を嘗めあげる。
「ひぃっ！　ん、はぁ…」
「アヤコ、もっと楽にして下さい。いつもと同じです。すぐ済みます」
　反射で仰け反る体、口からこぼれる嬌声。引き戻された意識に大人びたハスキーな声が染み渡る。
（うん、いつもと同じ。アタシは血を吸われて、家まで運ばれて、記憶を消されて…）
　惚けていた綾子の瞳に光が戻る。
（全部、忘れる？）

「ライダーさん…」
　先程まで脱力していた綾子が身を起こして、ライダーを見た。
「どうして、アタシなの？　健康な人間なんていくらでもいるでしょ？」
「…そうですね。身体が健康である事は言うまでもありません。でも…」
　突然起き上がってきた事に少し戸惑っている風だったが、ライダーはますっぐに綾子を見ていた。
「…でもそれ以上に。アヤコの心が綺麗だから」
　ドックン。
　鼓動が高鳴る。胸が苦しい。
「修練を通して鍛えられたあなたの高潔な魂魄は、一本の美しい剣のよう…」
　ライダーの手が綾子の手首を掴んだ。もう一方の手は顎に添えられ、綾子の顏を引き寄せた。
「私にはわかる。いえ、私にしかわからない」
　もう、ライダーの顔は目の前にあった。
「この味はっ！」
　頸動脈に突き立てられた牙が皮膚を貫き、鮮血が吹き出す。
「あぁっ、んんっ！」
　その体から溢れているのは、果たして血液だけなのだろうか。
　一滴も逃すまいと貪るように首筋に吸い付いている彼女には届いているのだろうか。
（そうだ）
　鋭い痛みと暖かな充実感の中、次第に薄らいでいく意識の中で綾子は思った。
（こんな思いまで消えてなくなってしまうのが嫌だったんだ）
　そうして今回もその記憶は『略奪』されていくのだった。