ネコトラの宴
今日もまた、いつも違う「いつも通り」の一日が終わろうとしている。 暗い空が街の灯りに勝り始める頃、彼女もまた、自らの住処を闇に委ねようとしていた。 「毎度ありー。また来てなー」 最後の客を笑顔で店の外まで見送り、入り口に掛けられた札を『OPEN』から『CLOSE』へ裏返す。 ドアに内側から鍵を掛けて、『コペンハーゲン』の本日の営業は終了した。 「あー、疲れた」 恥も外聞もなく首をゴキゴキと鳴らすその人は、この店の看板娘・蛍塚ネコだ。 バイトや常連達曰く、真の店長。 事実、彼女こそがこの店の大黒柱だ。昼は配達業務で冬木中を走り回り、夜は居酒屋の接客に励む。 夜が更けるに連れ、バイト連中のほとんどが一足先に帰ってしまっても、肩書き上の店長がケーキ片手にそそくさと自室に戻ってしまっても、彼女は「まぁいいけど」の一言で済まし、ほとんどの業務を独りでこなしてしまう。 尤も、傍からは客と一緒に飲んだくれているダメ人間にしか見えないのだが。 そんな彼女の一日も、残り僅か。 彼女が受け持つ業務は、本日の収支の計算と記録を残すだけとなった。 ちなみに、洗い物は店長が翌朝片付ける習慣となっている。 この道○年の彼女にとって、会計など酒の肴。 業務を円滑に進めるために、氷の入ったグラスへウィスキーを注いでいると、店の奥から出て来た人物に声を掛けられた。 「ネコ。商品の整理が終わりました」 「ありゃ、ライダーちゃん。いつも遅くまでお疲れ様」 労いの言葉と共に勧められたグラスをやんわりと押し返したのは、ネコとおそろいのエプロンをつけた長髪の美女。期待の新人バイト、ライダーだ。『コペンハーゲン』にしては珍しい、閉店まで残ってくれるバイトの一人として、重宝されている。 ネコにとっては読書好きの、そして酒好きの同士でもある彼女は、接客の手伝いまでしてくれるようになった。 人付き合いが得意、という訳ではないようだが、集客効果の塊のような美人が自ら進んで働いてくれるのなら、ネコにも店長にも止める理由はない。 …接客をする理由が『獲物』、つまり血の美味そうな人間を探すためだと知れば、誰かが止めもしたのだろうが… 気が付けばもう一人の看板娘として、常連達の人気者になっていた。 「一応、自転車通勤ですので。飲酒運転はご法度です」 「うにゃ、残念。まぁいいけど。今度、仕事抜きで誘うとしますかね。 それじゃ、気を付けて帰ってなー」 「はい…と、言いたい所ですが」 ライダーの眼鏡越しの視線が、店の入り口を突き刺す。何事?と首を傾げるネコの耳に、 「オトコー、いるー?」 聞き慣れた声が、聞き慣れない弱々しさで飛び込んできた。 「タイガ…のようですが。ネコ、『オトコ』とは?貴女の事ですか?」 「あー、そこは気にしないでくれると助かるかな。藤村の戯言だと思って」 アハハ、と苦笑するネコに頷きで返すライダー。 『一般的な生活』において、という限定条件付きではあるが、常識人である彼女は他人の踏み入ってはならない領域の境界線を心得ているのだ。 ましてや――飽く迄、ライダーの主観において――悪魔的で嗜虐的な誰かさんのように、嬉々として踏み入る事などするはずがなかった。 「くちゅん!…ふぅ」 「風邪か?遠坂にしては珍しい」 「んー、誰かが私を悪く言ったような…いえ、思ったような気がする。 士郎、なんか余計な事、考えなかった?」 「なんで満面の笑みで俺に振る?」 そんなネコとライダーのやりとりの間に、来訪者はドアを叩くようになった。 「オトコー、いるんでしょー?出てこーい、オトコー」 それでも控え目な声とノック。 珍しいものを見るように、ライダーは少しだけ眉をひそめる。 「タイガらしくないですね。何かあったのでしょうか。 …ネコ、入れるのですか?それとも?」 「まぁ、このままオトコオトコと連呼されるのも嫌だからね。 ちょっと相手してみる。あ、でもライダーちゃんは帰ってくれていいよー」 「判りました。では、裏口をお借りします」 「ん、気を遣わせて悪いね」 軽い会釈をしてライダーが立ち去る。 その後姿を見送ってから、ネコはため息混じりにドアへ歩み寄り、鍵とドアを開けた。 「藤村ー、その呼び方は止めろと何度言ったら判ってくれるのかね?」 「あ、やっぱりいた。ちょっと飲ませてねー」 見事に会話が噛み合っていない旧友二人。 そして、えへへと微笑みながら、返事を待たずに店内へ踏み込む猛獣一匹。 無駄とは判りつつも、店員としてのネコが忠告する。 「お客さん、もう閉店なんですがね」 「知ってるよ?わざわざ閉まる直後を狙って来たんだから。 たまにはゆっくり飲ませてもらおうと思って」 「よし、帰れ」 「あ、ウィスキーだ。私もこれでいいよ。家だとビールがメインだしねー」 「人の話を聞け、バカ虎」 「うん、聞く聞く。聞くからオトコも付き合ってよ。今日はそういう気分なのでしたー」 言うが早いか、ネコの用意していたグラスを口に運ぶ大河。 コキュコキュという音の後には、氷しか残らなかった。 「ぷはぁ、くぅ〜ッ!うむ、よきかなよきかな」 「何にも良くないでしょうが…ったく、ロックのイッキはやめなさい」 文句を言いながらも、自分用に新しいグラスを用意する。 藤村大河との付き合い方を熟知しているネコは、猛獣への無謀な抵抗よりも、友人とのささやかな酒宴を選んだのだった。 「まぁ、たまにはこういうのもいいんだけどさ。 今日は一体どうしたん?藤村らしいと言うか、らしくないと言うか」 世間話を肴に飲む事暫く、会話が途切れたのをきっかけにネコが問い掛けた。 カウンターを挟んで向かい合う二人の傍らには、既に空となったボトルが一つ。 大河のグラスの進み具合は、ネコの知る彼女よりも幾分速い。 藤村大河の人となりを知る者として、閉店後の飲食店に踏み込むのは、納得出来てしまう。 しかし、訪ねてきた時の控え目さといい、飲むペースといい、やはり今日のコイツはおかしい、と結論を出しての問い掛けだった。 「んー?あはは、ちょっと、ね」 赤い顔ではにかむ大河。いつもの彼女なら、この質問をきっかけに、鉄砲水のように愚痴や文句をぶつけてくるはずだった。 「ふぅん。まぁ話したくないならいいけど。んー、でも大体予想は付くかな」 同席者に断りもせず、ネコは次のボトルを開けた。 自分のグラスと、無言で差し出された相手のグラスに琥珀色の液体を注ぐ。 穏やかで、ささやかな酒宴。 それに、まるで幕を下ろすかのような厳かな声で、ネコが事の核心に触れた。 「エミヤんが、どうかしたん?」 「ちょっと、なんでわかっちゃうのよ」 「アンタとの付き合いも長いからねー」 「…そっか、お見通しなのか」 既に中身が半分まで減っているグラスを、カラカラと回す。 大河の視線は確かにグラスへ向けられているが、焦点はどこか遠くへ結ばれているようだった。 「士郎さ、卒業したら、イギリスに行くんだって」 「へぇ。春に辞めるかも、とは聞いてたけど、海外留学とはね」 「でね?向こうで何するの、って聴いても、なんだか答えが曖昧なのよ。 で、友達の遠坂って女の子もロンドンの美大に留学するとか」 「おー、青春っぽい香り?まぁ、若いからいいか」 「うー、オトコはなんでも受け入れ過ぎだよぅ」 「オトコ言うな」 「後から思い出したんだけど、セイバーちゃんもイギリス人なんだよねぇ。 だからって訳じゃないんだけど、お姉ちゃんは不安で心配で… せめて、何のためにイギリスに行くのかだけでもはっきりさせて欲しいのよぉ」 グラスを握り締めての演説は、それでもやはり静かなものだった。 ここに他の関係者がいたなら、普段の大河らしくない、と訝しむかもしれない。 ネコもつい先程まではそうだったように。 しかし、事の顛末をしれば、何もおかしな所はない。 藤村は、やっぱり藤村か。 ネコは内心でそう呟き、自身の内側にあるスイッチをいれるように、グラスをイッキに呷った。 「うはーっ…やれやれ、何をしにきたかと思えば、のろけ話を聞かされるとはねー」 「の、の!?のろけって何よぅ」 「のろけは、のろけ。愛しの弟分の自慢話でしょう」 「あのねオトコ、私は士郎の事が」 「不安で心配。でも、イギリス行きの目的がはっきりしない理由は判っている。 だから怒って騒ぐ事もない。違いますか?」 「う…」 「エミヤんが、自己保身のためだけに嘘を吐いたり、隠し事をする性格じゃないって事は、姉である貴女が一番良く判ってるはずです。 じゃあ何故、堂々と説明しないか。他でもない、貴女のためでしょう?」 「あぅ…」 「きっと、エミヤんは何もかも説明したいはずです。 でも、そう出来ない何かがあるんでしょう。 話してしまえば、貴女がもっと大きな不安や心配を背負う事になる。 だから、曖昧な説明でお茶を濁しているんじゃないですか?」 「…むぅ」 「つまりは、そうしてまでも進みたい道を見つけたんでしょうね。 …ここまで言っても、まだ素直になれませんか? 貴女はもう、自分がどうするべきか、判っているはずでしょう?」 むむむ、と唸る事数秒。 ガタンと椅子を鳴らして立ち上がった大河は、腰に手を当ててグラスの中の液体を勢い良く流し込んだ。 「ぶは〜〜〜っ!! そう、私は士郎をして『藤ねえ』と言わしめた女!つまり姉!即ち虎! 私は姉として、弟の巣立ちを笑顔で見送る所存であります! そして、いつか士郎が帰ってきたら笑顔で迎えてやらねばならないのであります!」 そのままの姿勢で、ズイッとグラスを差し出す猛獣に苦笑しながらも、ネコはボトルを傾ける。 「そういう事。『人間到る處青山有り』ってねー。 あ、これだと帰って来ないかもしれないか」 「お、いかにも博識そうなお言葉。どゆ意味?」 打って変わって、擦り寄るように椅子へと座り直す大河。移り身の早さと、質問の内容に呆れつつ、ネコは自分のグラスへもウィスキーを満たす。 「…まったく。アンタ、先生でしょうが。これぐらい知っときなさい」 「なによー、見下しちゃってさ。いいもん、帰ったら士郎に聴くから」 「あー、エミヤんはダメかもなー。ライダーちゃんなら知ってるかも。 まぁどうでもいいけど」 二人同時にグラスを口へ運ぶ。 まだまだ酒宴は始まったばかりだと、その笑顔が告げていた。 店内に響くノックの音。間もなく、遠慮がちにドアが開かれた。 「こんばんは…」 顔を出したのは、衛宮士郎その人。 ライダーと並ぶ『コペンハーゲン』の主力バイトの一人であり、藤村大河の弟分だった。 「おや、エミヤん。こんな夜更けにどしたん?」 士郎の視線が、グラスを握ったままのネコを素通りし、もう一人の人物へと刺さる。 「…潰れてますね」 言葉通り、大河は物の見事に酔い潰れていた。 カウンターに突っ伏し、幸せそうな笑みを浮かべている。 「むにゃ…士郎…そのマスクはドブに捨てて…」 「何の夢だ?いやそれより。すみません、ウチのバカ虎が…」 「慣れてるから気にしなくてもよろしい。 『冬木の虎』の寝顔が肴ってのも、悪くなかったしねー」 深々と頭を下げる士郎に、アハハと笑顔で返すネコ。 一応、手に持つグラスを差し出してみたものの、士郎もやんわり押し返すのだった。 「それじゃ、連れて帰ります。タイガー号…原付は、後日取りに来させます。 藤ねえの飲んだ分は俺のバイト代から引いといて下さい… ぐ、結構重いな藤ねえ。タクシー使おうかな…」 当分目覚めそうにない姉貴分を背負い、士郎が出て行こうとする。 その後姿に、ネコは一つの疑問を投げ掛けた。 「ちょい待ち、エミヤん。藤村がここにいるってなんで判ったん?」 「ああ、ライダーが教えてくれたんですよ。で、なんとなく迷惑掛けてる気がして。 俺も出掛けてたんで、迎えに来るのが遅くなっちゃいましたけど」 「そかそか。うん、エミヤんは姉想いのいい子だね。藤村は幸せ者だ」 「…それだから、みんなの幸せを祈るのよ…むにゃ」 「だから、何の夢だ…それじゃ、また今度、仕事の日に」 「あいよ、おやすみ。頑張りな、少年」 ドアが閉まり、今度こそ本当に『コペンハーゲン』の一日が終わる。 もう誰もいない空間に、姉を背負う弟の残像が見えた気がして、ネコは軽く目を擦った。 「…六年、か。立派に成長したもんだね」 グラスの中身を片付け、大きく息を吐きながら天井を仰ぐ。 成長した子供が、自分の意思で巣立っていくのなら。 育てた者達がしてやれる事なんて、一体幾つあるだろう―― 「頑張りな、少年」 もう一度、呟く。 いつか別れの時が来て、また再び会えた時、自分も笑顔でいられるように。 「まずは目の前の仕事を片付けよう」 会計業務を肴に、ネコの酒宴は続くのだった。
by V.Grave
ネコさん支援…のつもりが、完成と投稿がこんな終わり際になってしまいました。 私が『アトラクシア』で感じた、ネコさんの「いい女」っぷりが少しでも伝われば幸いです。
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