桜さん応援SS　『 home sweet home 』 「つまり――こういうことよ」 　ばたり。と、遠坂はその分厚い原稿用紙の束をダイニングのテーブルの上に放り出した。全く言葉通りに放りだした。置いたのではない。それなりに手間も掛かっているであろう手書きの原稿を「こんなものには用はない」とゴミでも捨てるかのように「ぽい」と棄てたのだ。 「その頃、士郎のお義理のお父さん、衛宮切嗣氏は人助けをしながら世界を旅していたのよ」 「……」 「……」 　向かいのソファに並んで腰掛けていた俺と桜は、黙ったままそんな遠坂の顔を見返していた。 「ふと立ち寄ったモナコのカジノで……」 「……モナコ？」 「……カジノですか？」 　ぐっつ、と握った拳を胸元に引き付けて遠坂は語りつづける。 「精巧なニセ札を見つけて……」 「ニセ札って、遠坂……」 「姉さん……」 　遠坂は目を瞑り（俺と桜の反応は全く無視して）ばっと左手で斜め上47℃ぐらいを指し示す。 「その震源地を求めて舞台はヨーロッパの小国へ！」 「……古いな」※１ 「ウエディング・ドレスの花嫁が黒服に追われている場面に遭遇するんですよね？」 「たぶんな」 「…………」 　ちっこん。ちっこん。ちっこん。ちっこん…… 　三代前の当主の誕生日に遠坂家にやってきたという大きなのっぽの古時計が、律儀に時を刻む。 　レトロな文字盤の針は午前二時を回っていた。 「……」 　サイドテーブルの上にはせんべいやらチップスやらが二割ほど中身を残して山を作っているが急須もティーポットも、中身は空。 「……」 　拳を握って肩を振るわせている遠坂の両目の下にはうっすらではあるがクマまでできている。 ……まあ、俺も桜も似たような感じになっているのだが。 　静まりかえる部屋。一息深呼吸して―― 「文句あるんだったら、あんたたちも何か考えなさいよっ！」 　――遠坂が、日付が変わって何度目かの雄叫びを上げた。 『 Home sweet home ― 帰還 ―　』　　 「……で、士郎」 　山の手へ向かう坂道の途中、俺たちの先を行く遠坂がくるっと振り返って、聞いてきた。 「今日の『シナリオ』、ちゃんと頭に入ってるんでしょうね？」 「馬鹿にすんな。昨日の今日で、忘れるもんか」 　よっこらせと迷彩色のナップザックを背負い上げて、俺は答えた。正確には今朝の今、だ。これで忘れるようなら、折角新しい体を貰った甲斐もない。 「あのねえ。『昨日の今日』だから、変なところでボロださないように気をつけなさいっていってるの」 　遠坂はちっちっちと人差し指を振ってみせた。 「一年分のアリバイなんだから、二週間はかけてシュミレーションしたかったわよ」 　まるで主人の汚職事件で参考人出廷する政治家秘書にアドバイスをする大手法律事務所の敏腕（悪徳）弁護士のような仕草だった。 　俺はため息をついた。 「相手は藤ねえだぞ」 「わかってないわね……だからこそ、手抜き仕事じゃ太刀打ちできないんじゃない」 　遠坂はぎろりとこちらをにらんだ。 　実際、今日の予定というか、方針は遠坂が不眠不休で書き上げた『シナリオ』に従うことになっている。 　俺がこうして動けるまでの空白の日々を埋めるべく、遠坂が『捏造』した衛宮士郎の行動調査報告書。 　制作日数　二週間　原稿用紙にして五〇〇枚。全て愛用の万年筆（モンブラン）で手書き。 　その他　ヨーロッパ主要都市の観光資料・地図・過去一年の気象データ・英語・フランス語・ドイツ語・ラテン語・ギリシャ語の日常会話集付。 　…… 　小説かなんかにして、どっかの雑誌の編集部に持ち込め。連載とれるぞ、きっと。 「……なんか、今、妙なこと考えてなかった？」 　めっそうもない。と、首をすくめるて見せると、遠坂は不機嫌そうに鼻を鳴らした。 「……ならいいけど」 　 　そんな風にいいながら前を向いた遠坂の背にほっとしてため息をついていると俺の少し後ろをついてきていた桜が「先輩」と声をかけて来た。 「一年ぶりの坂道ですけど、どうですか？」 　体は大丈夫だ。だが、桜が聞いているのはそんなことではないだろう。 「ん」 　俺は黙って、空を見上げた。よく晴れている。抜けるような青空だ。 　寝不足の目に染みる青だが、むろん厭わしいものではない。 「なんか……百年くらい経ってそうな気がするなあ」 　沖に上がった浦島太郎。そんな感じだった。 「冗談じゃないわ」 　低い声で遠坂がぼそりと言った。 「一年で沢山よ。百年も呆けようってなら、士郎」 　殺気のこもった目でこっちをみる。 「後の９９年（ぐらい）はあんたと桜で何とかしなさい」 「もののたとえだ。遠坂。他意はないぞ」 　あの後、夜明け前までかかって半年分の行動（決定版）を準備した俺たちはそのまま頽れるように仮眠をとって、４時間後、こうして『家』に向かう坂道を登っている。 　目指すは、なつかしの我が家。久方ぶりの帰還である。 「桜、藤村先生は？」 「はい。今日は学校はお休みなので朝から先輩のお家にいらっしゃってます。本当は空港まで迎えに行くと言っておられたんですが引き留めました」 「その方がいいわ。これ以上不確定要素は増やしたくないし」 　桜の説明に遠坂が頷く。このあたりの所を俺は何も聞いていない。「余計なこと考えない方がいいわよ。絶対ボロがでるから。そもそも士郎にはその辺の才能がまったく欠落しているんだから、黙って私たちの言うことを聞いていればいいの」とは遠坂のセリフだ。 「姉さんの指示通りに普通に言葉だけで説得しました。今回、暗示は一切使っていません」 「上出来よ。聖杯戦争以後の士郎に関する記憶だけとはいえ記憶制御の魔術を重ねがけするなんて事態は避けたかったから」 「おい」 　さすがにこれは聞き捨てならない。 「ちょっと待てよ。遠坂」 　不機嫌になるつもりはなかったが、声にトゲが出てしまうのは避けられない。つい詰問口調になる。 「お前……藤ねえに魔術なんて使ったのか」 「ええ、そうよ」 　遠坂が立ち止まって言い返してきた。 「考えても見なさい。『急な電話があって切嗣の知り合いがピンチだからちょっと外国へ行ってくる。こっちが落ち着いたら帰るから心配するな』なんて穴だらけの大ウソを何の暗示もなしに何ヶ月も持続させられるわけないでしょ」 　抑揚のない、感情の感じられない、平板な声。遠坂の言葉を聞いた途端、頭の芯が熱を帯びるのがわかった。　 「藤ねえは身内だぞ！」 「じゃあ、なに？　あらいざらい本当のことを話せっていうの。貴方は」 　冷静な顔でそういう遠坂が逆に気に障る。 「そう云うことをいってるんじゃないっ！」 　いや、わかってる。遠坂に苦労かけたのはわかってる。動けない……というか生きているか死んでいるかもわからなかった俺を、まがりなりも『人間』として生きていけるようにしてくれたのは遠坂だ。 　しかし……それでも、藤ねえは俺の家族なんだ。 　そんな風に思ったのが顔に出たのか。遠坂の表情が変わる。 「じゃあどういう意味よ！」 　遠坂の顔がみるみるうちに真っ赤になった。 「いいわよ！　ええ！　どうだっていいのよ！　言えるモンならいっちゃえばいいでしょ！」 　そう一気に言い終わった後、こちらを睨み付けていた遠坂が目をそらせて横を向いた。 　俺は後悔した。わかってるのに……遠坂なりに色々考えた結果だったはずなのに。 　言い返してきた遠坂に、こっちも何も考えずにほとんど脊髄反射で言い返した。 　くそ。と心の中で悪態をつく。 　何故かここのところ、顔を合わせるたびに遠坂と言い合いをしているような気がする。 「……ごめん。悪かった」 「……」 　遠坂は顔を背けたまま黙っている。耳まで真っ赤になって拳を握ってその場に立ちつくしている。幽かに……ほんの幽かに肩を振るわせて。 　……え？　まさか、……まさか、な、泣…… 「遠坂？」 「……こっち、みるな」 「……いや、でも」 「……見るなってんのよ。馬鹿士郎！」　 　しかし、そんな……でも、あの遠坂が。まさか泣いて……なんてそんなことは…… 　心配と恐怖に相半ばされた意識領域が頭痛を誘発する。万が一自分のせいで遠坂が泣いたりしたら、俺自身どうしていいかわからない。ともかく正面に回り込んで、顔を見ようとしたその瞬間…… 「みるなああああっ」 　全く遠慮呵責のない平手が俺の横っ面に炸裂した。 　ぐいっと何かに捕まれたかのようにクビが拗れて、脳が頭蓋の中で踊るような錯覚がした。……いや、それは本当に錯覚だったのだろうか…… 「あれ？　士郎？」「きゃあああっ先輩っ！」 「……たく」 　頬を押さえて俺はぼやいた。 「意識、飛んだぞ」 　正直、クビがちぎれてとんでいったんじゃないかと思った。 「自業自得よっ」 　遠坂は（俺が倒れた直後は心配してくれたのだが）さっきと同じように振り返りもせずにずんずん先に歩いていく。こめかみに血管の一本や二本は浮かんでいそうだ。怖くて確認できないが。 「悪かったよ。でも、アレは平手じゃなくて張り手だぞ」 　早く冷さないと明日は腫れ上がる。いい感じに紫色に。 「ひとを力道山みたいにいうなっ！」※２ 　再び立ち止まり、ぐりんと顔だけでこっちを睨む。 　こわいぞ、遠坂。 　一瞬、俺の脳裏を今までの人生が映画のエンディングテロップのように流れたが、遠坂は今度は何を言う出もなく、俺と桜が追いつくのを待って、並んで歩き出す。 「えっと……基本的なところだけ再度確認しますね」 　と桜は去年の学生手帳を開いた。そこには桜自身の予定に交じる形で俺の『行動』が書き込まれている。（わかりやすいように青色のペンを使って） 「２月にお義父さん知り合いから連絡を受けてヨーロッパへ行き、色々あってその知り合いの人の手伝いをしていました。その人の仕事は調査員（オプ）※３で、切嗣さんの行動した後を辿りながら人捜しをしていました」 　ペンを片手に手帳を覘きながら桜はてきぱきと説明した。幾つか国名や都市名も書き込まれているが、これについては俺が言うよりも適宜桜の方から助け船が入ることになっている。 「――ブリュッセルで調査は一段落したものの、そこでＫさん（お義父さんの知人）が病気になり、先輩は看病のためその人の側を離れられなくなりました。ようやく最近になって知人の家族の方とようやく連絡が取れて、世話を引き継ぎ、帰ってきた……と」 「つっこみどころ満載ね……まあ、そのくらいあやふやの方がいいわ。探偵（オプ）だなんてどこのスパイ映画がミステリー劇場だってネタだけど、事情があるんだと思ってもらえたら先生も詳しく聞いてこないだろうし」 　そのへんは紙一重だ。藤ねえの事だから、少しでも面白そうだと思ったら根掘り葉掘り聞きたがるだろう。 「そういう事情でヨーロッパを転々としているという事については、出来る限り私の方で藤村先生に伝えてあります」 「桜がフォローしてくれてるなら大丈夫だな」 「……なんとなく、引っかかるわね。その言い方」 「他意はないぞ」 　それから、と少し言いにくそうに桜が続ける。 「先輩の消息を知らせるものとしては、手紙が大体二ヶ月に一度、計六通。電話が月に二度から三度で計２７回……記憶制御の魔術はこの先輩からの連絡に関する事柄を藤村先生に時系列にそって『あったこと』だと認識してもらうために用いました」 “衛宮士郎は『切嗣の知り合いがピンチだから助けてくる』といって冬木を旅立った” 　あの戦争の後、遠坂はそんな風に俺のことを藤ねえに告げたらしい。 　あの戦いの後、一ヶ月は聖杯とつながっていた桜も大けがをした遠坂もまわりの状況を修繕う余裕なんて無かった。だがそれでも誰かが藤ねえに事情を説明しなければならなかった。そんな中で遠坂は藤ねえに俺の消息をそんな風に説明した。 　先ほど「つっこみどころ満載」と遠坂自ら評したこのシナリオは、そもそもはその遠坂が急場を凌ぐために藤ねえに言ったその一言が、元というか、契機というか、元凶になっている。 　俺の延命と体の調達、桜の体の異変への対応、自分の怪我、魔術協会や教会と折衝しつつ事後処理と、いくつもの案件を同時進行で進めねばならない状況下、さすがの遠坂も藤ねえを言いくるめるところまでは気がまわらなかったらしい。そんな説明が精一杯だったのだ。 　藤ねえは俺が何も相談も説明すら藤ねえにすることなく旅に出たのがショックだったようで、ひどく落ち込んだらしい。だが見るからに元気をなくした藤ねえを桜が励ましたり力づけたりできるようになったのは、俺の『状況』に何とか目途がついて桜自身が落ち着いた頃、すなわち事件後二ヶ月たってからだった。もうその頃には藤ねえは意気消沈などというレベルではなく、精神的にも健康的も憔悴しきってしまっていた。あの元気の固まりのような藤ねえがとうとう寝込んでしまったのだ。 　そんな藤ねえに遠坂はやむを得ず記憶制御の魔術をかけることにした。 　結果――遠坂の魔術は有効に働いた。 　桜もそれに併せて、衛宮の家で食事を用意してくれたりした。桜がそれまでと同じように振る舞ってくれたおかげで、藤ねえも少しずつ元気なり、ようやく最近になって 「士郎がもうすぐ帰ってくるんだよー。おみやげ何かなー」 　なんて言うようになったのだと、桜はゆっくりとした口調で俺に説明してくれた。 「そうか……」 　そうだったのか。 　桜の説明を聞いて、ようやく遠坂がどんな気持ちで藤ねえに魔術をかけたのか、わかった。 　なんてやさしい『魔術』（マジック）。 　自己嫌悪で目眩いがした。 　あいつには本当にいくら感謝してもしたりない。なのに俺は思いつきのそのままに怒鳴ってしまったのだ。 「遠坂……」 「いいのよ、士郎……わかってくれれば」 　ついと目をそらして、遠坂は前を向いた。 「倍返しで勘弁してあげる」 　その横顔に浮かぶ微笑みに、俺は何の誇張もなく総毛立つような殺気を憶えたりする。 　…………さっきのカラテチョップは「倍返し」の中には入ってないんだろうなあ。 　などと、俺が暗澹たる気持ちで絶望の淵を覗き込んでいると。 　半歩後ろをついてきていた桜が 「先輩は藤村先生にウソつくのが嫌なんですよね」 なんてこと言った。 「そんなことはないぞ」と俺は桜に答えた。 　今までだって藤ねえにはいろんな事を秘密にしてきた。親父が魔術師だったことも、俺が魔術師を目ざしたことも、そして、一年前の冬、俺たちが体験したこともきっと一生言えないだろう。 　魔術は秘匿するモノ。 　魔術師は身を潜めるモノ。 　社会とのつながりは必要にして最低限とし、けして深入りしてはならない。 　国にも、組織にも、隣人にも、家族にも。 　俺は魔術師としては半人前だが、それくらいは弁えているし、覚悟をしている。 「『秘密にする』のと『ウソを言う』のとは、違いますよ」 　そんな俺の頭の中を見透かすように、桜は言った。 「士郎はウソが言えない子だから、言えないことができたら黙っちゃうのよね……って藤村先生が言ってました」 「……」 「人によってそれぞれだと思いますが」と桜は言い継いだ。 「秘密もウソも信頼をしてくれる人に対しての裏切りという点で同じなんだと思います。でも」 　訥々と、ただ風に乗せるように、桜は話し続ける。 「藤村先生は先輩が何か秘密にしてても『士郎が黙っているからにはきっと意味があるんだろう』って納得してくれる人なんです。先生がそんな人だから、先輩は他に理由を準備しなくても、藤村先生にウソをつかなくてすんだ。でも、逆に、そんな藤村先生と先輩だからこそ、お互いにウソをつけなくなっちゃったんです」 　言い返そうと思った。でも、桜の言葉には深い確信のようなものが感じられて、それが俺の口を重くした。 「あんたたち…………そーゆーところが不覚悟だって、わかってる？」 　俺が黙ってしまったのとは逆に、遠坂は「ふん」と鼻を鳴らして、桜の言葉を一蹴した。 「秘密だウソだなんて境界引いているヒマがあったら、現実を直視しなさい。観念論なんて結局どれもこれも自分自身を納得させるための後付なんだから、そんなモノに拘るなんて、時間の無駄で、且つ心の贅肉よ」 「わかってる」 　俺は遠坂に言った。 「親父に魔術師になりたいといったのは俺自身の意志だ。今更、立ち止まるなんて出来無い」 　そう、出来無い。もう、後戻りなんて出来無い。 　魔術を学んだ後で自分に何が出来るか、これから自分がなんになるかはわからないが、それでも俺は自分自身で魔術を学ぶことを撰んだのだから。 　俺の返事に遠坂は「そう」といって軽くため息をついた。もうその顔には何の表情もなくなっていた。その魔術師らしい鏡のような無表情のまま、彼女は「士郎」と俺の名を呼んだ。 「一つ間違っているから訂正しておくわね。魔術師というのはね、途中からなるモノでもやめられるモノでもない。魔術師は生れる前から魔術師で、死んだ後も魔術師なの」 　こういう話をするとき遠坂の目は凍る。冷たく澄んで堅牢で鋭い。 「貴方も、そう。……今更、逃げられるだなんて思わない方がいいわよ」 　杖とするも剣とするも、味方とするも対峙するも、自由。ただ、それは影のごとく死のごとく、付き従い寄り添い囁き続ける。忘れることも目をそらすことも出来るが、けっして逃れることだけはできないのが『そいつ』なのだと、魔術師の彼女は魔術師の俺に告げた。 　門の前についた。 　久しぶりの我が家。そう思うと格別の感興がある。 　正直、家をでたときには二度とこの門はくぐれないものと、そう思っていた。 　聖杯戦争のことが、思い出された。 　なくしたものが、ある。 　別れた人が、いる。 　もう二度と会えない顔が、脳裏をかすめた。 　それを思うと、この体で、この足で、この門をくぐってよいかと、思う。 「……」 　振り返る。 「……」 　桜が立っている。俺の視線に気づいて、伏せていた顔を上げる。 　よし。ちゃんと目に光がある。 　目を合わせて頷いてみせた。桜は一生懸命こちらに笑ってみせる。 　ぽん。と俺は桜の頭に手をやった。そのまま頭をなぜると桜はくすぐったそうに表情を崩した。 　そうだ。俺は立ち止まれない。俺の後ろに桜がいる。 　こんな俺を先輩と呼んでくれる後輩に、無様な背中は見せられない。 　 「さて、士郎」 　自身も深呼吸しながら遠坂が言った。 「覚悟はいいわね」 「おう」 　師と仰ぎ、相棒として背中を預ける戦友の「檄」に頷き返して、俺は門をくぐる。 　どこから、話そうか？　どんな、挨拶をしようか？　そう思いながら、緊張とともに門をくぐり、家へ足を踏み入れる。 　ああ、今ならわかる。 　この家を包む結界がまだちゃんとある……親父の結んだ「守り」に触れる。 　その時――突然。 　――お帰り。遅かったね。大変だったかい？ 　そう懐かしい声で聞こえたような気がした。 　――待っていたよ。士郎。早速だけど忠告だ。女の子を泣かしてはいけない。泣かしたら罰は甘んじて受ける。 　――これは男の「けじめ」だ。いいね。 　なんだかわからないけれど、そんな言葉が聞こえたような気がして―― 　ふいに吹き付ける風の中で、くたびれたコートの背中を幻に見て……そして。 　そして気づいたら俺は、なんだか暖かいものに抱きしめられていた。 「……この、ばか士郎。心配したんだぞ」 　無理やりこっちの頭をつかんで、ヘッドロックでも掛けるみたいに乱暴に胸にかき抱きながら、姉さんみたいで母さんみたいでもあったその人は、涙で潤んだ声で、やっとそれだけ、言った。 「姉さん、これは……」 「ありえないわ。こんなの……術式は完璧だった。せいぜい旅行に行って帰ってきたくらいの印象（ストレス）しかないはずなのに」 　遠くで、遠坂と桜の声が聞こえた。聞こえたけれど、もうそんなことはどうでもよかった。 　 　このちっこい体のどこにそんな力があるんだと思うほどの力一杯の包容。 　人に抱かれるというのが、こんなに暖かなものだったのかと、気がついて。 「ごめん」 　ガキの時、切嗣が逝った時でもそんなことはしなかったのに、俺はすがりつくようにその人の体を抱きしめていた。 「ごめん、な」 　挨拶もシナリオも全部吹っ飛んでいた。言葉がでなかった。舌が強張って、何も……何も言えなかった。 　ただ、他の言葉を忘れてしまったかのように、繰り返した。 「ごめ……ふ、じ……ねえ。ごめ……ん」 　他の言葉は鼻の奥に引っかかって文章にならない。その代りに藤ねえの体に回した腕に力をこめた。 　こんな小さな女性（ひと）だったろうか。そんなことにはじめて気づいたような気がした。 　そうして、突然雷に撃たれたように悟る。 　俺は藤ねえに内緒にしていることがある。 　これからも――だぶん一生藤ねえにはいえない秘密を抱えている。 　それが……こんなに重いだなんて。 　きっと親父も――衛宮切嗣も、こんな苦しい思いでこのひとのこの笑顔を見つめたのだ。 　まぶしかったろう。うれしかったろう。そしてどんなにか愛おしかったろう。 　やっと、今、それがわかった。 「ごめんな。藤ねえ……た、」 　ああ、それでも……ごめん。藤ねえ。言えない。 　それでも……ただ、この瞬間は 「た……ただ……」 　……ただいま―― 「……」 　見上げると月があった。曇りガラスの破片のような薄い月が、屋根裏部屋の明かり取りの窓のように見えた。 　どうやら何時の間にか寝てしまったらしい。 「えっと、た、たしか」 　たしか……「フランスでは子供でもワインを飲んでいる。水扱いだー」なんてノリになって『お土産』のボトルを全部あけて……ええと。 「頭、痛てえ……」 　くそ。つぶれちまったか、それにしても三月とはいえ良く風邪もひかずに……と思ったら、俺の体に毛布が掛けられていて、ついでに頭の下に柔らかいものがあてがわれていた。 「先輩？　起きたんですか」 　桜の声が頭の上からした。 　え……上から？ 　ずるずると体ごと上を向く。すると、何故か桜の顔がごく近いところに見えた。ん？　では俺の頭の下にある“やわらかいもの”は…… 「あ……」 　桜のふともも！……ひ、膝枕！ 　慌てて起きようとしたが「だめです」と桜に肩を押さえられた。仕方無く再び桜の膝に頭を載せる。 「……どうして、だめなんでしょうか？　桜サン」 「藤村先生の御命令です」 「藤ねえの？」 　はい、と桜は微笑んだ。 「長い旅から帰ってきたんだから、ゆっくり寝かせてあげてね、と」 　だから目を閉じてくださいね。と桜は行った。 　俺は、桜の言葉に甘えてもう一度目を閉じた。 　そうか――藤ねえがそんなことを。 　敵わないな。と思った。生きている限り俺は藤ねえには勝てそうもない。 　結論から言えば。 　遠坂の記憶制御も桜のフォローも効力をちゃんと発揮していた。 　玄関で俺に抱きついた藤ねえは、ひとしきり声を上げてわんわん泣くと、憑き物でも落ちたみたいにケロリとした。 　まるで、何故自分がこんなに泣いてしまったのかわからないといったように。 「えへへー　へんだねえー　なんでかなー」 と照れくさそうに目じりのしずくを指で拭いながら、藤ねえは、笑ってくれた。 　最後に会った時のままに。 　俺は藤ねえに引っ張られるままに玄関を入った。 　一年間留守にしていた家は、どこもすっかり片付いていて塵一つ落ちていなかった。 　ちゃんと、暖かいままだった。藤ねえと桜と遠坂が守っていてくれたのだ。 　……俺の帰る場所を。 「それで？　藤ねえは？」 「居間で寝てしまわれたので毛布を掛けてきました」 「遠坂は？」 「同じです。藤村先生と刺し違えました」 　桜の言葉に思わず頭を抑えた。 　そっか……そりゃあ、酷い目にあわせたなあ。すまん、遠坂。 　でもアレはお前の自爆だぞ。 　日本酒とワインをちゃんぽんで藤ねえに飲ませたりするから……やめろっていったのに。 「士郎に無理させてどーにかなったら目も当てられない……と、それは悲壮な覚悟をしてたみたいですから、後で褒めてあげ下さいね」 「了解」 　しかし大丈夫か？　あいつ『シナリオ』の追い込みで三日寝てないんだし、その上、料理とワインで宴会に突入して藤ねえが「タイガー」から「大虎」へ移行したため、せっかくこの時のために書いたシナリオが全く役に立たなかったりで、かなりキてた。 「やれやれ、また遠坂には借りをつくっちまったな」 　そんなことを言うと、俺の表情をどう読んだのか…… 「最近、先輩と姉さん、仲いいですよね」 　なんて事を桜がいった。ちょっと待て、それは違うぞ。 「なんでそうなるのさ？　遠坂と俺は仲悪いぞ」 　顔を合わせれば喧嘩ばかりで。俺の考えが足りないのが主な理由だけど。 「それは姉さんも悪いんです。基本的に結論から先に言う人で、言ったことはすぐ実行しちゃう人すから。そんな天才の人相手に普通の人なんてついていくだけで精一杯です」 　それよりも、と桜はちょっと困ったような顔をする。 「だからって言うのも変ですけど姉さんってそういう人ですから、普通に人と怒鳴りあう事なんて無かったと思うんです。先輩とはそれが出来るし、きっとそれが楽しいんだと思うんです」 　それでどうして仲いいなんて話になる！　というか、それって「仲がよい」という状況なのか？ 　だいたい、どっちかっていうと、俺が一方的にいたぶられてるように思うし。 「普通でもないし、対等でもないぞ、多分」 「そんなこと無いですよ。先輩、結構姉さんを負かしてます」 　そんなことは無い。これだけははっきり言える。 「……きっとそういう先輩だから、姉さんも普通は見せないような処を安心してみせてるんじゃないかと」 　人差し指をほほに当てて考え込む桜。俺は魂が抜けてでそうなくらい脱力した。普通は見せないような処だと？ 「ふっ……俺はできればそんな遠坂なぞ、一生知りたくなかった……」 　はっはっは……思わずしみじみ言ってしまった。 　一応、憧れていたんだ。過去の自分と現在の級友達の一途な憧れを思えば、俺がそう願うのは当然の権利だとおもう。 「桜だってそう思うだろう。下級生の女子にも人気あったろ？　遠坂って」 「そういうことじゃないんですけど……ええと私については意見を保留させてもらいます」 　はは、と、桜は困ったような愛想笑いした。 　でも、遠坂が気が置けない相手になってきているのは確かかもしれない。何も隠し事がないし、というかへたに隠し事をすると命があぶないし。その分開き直っているというか、気楽ではある。 　…… 　藤ねえのこともよくわかってたし、ほんとに桜は他人のことをよく見ている。遠坂と俺が楽しそうにしているというのも、桜がそうに見たというなら、あるいは、そうなのかもしれない。 「どうかしましたか？」 　俺が見上げていたので、今度は桜がこっちに聞いてきた。 「いや、桜はよく他人のことをみているなあって、感心してた」 　桜はちょっと眉を寄せた困っているとも微笑んでいるとも取れる曖昧な表情で、 「年季が違いますから」 と言った。 「年季？」 「先輩も姉さんも、人の顔色なんて見ない人じゃないですか。たぶん、いざという時の洞察力とかは鋭いと思うんですけど」 　よくわからないまま、桜の顔を見上げていると 「私、物心ついた時からずっと他人の顔ばかり見て生きてきたんです」 　少し小首をかしげるようにして説明する。 「この人は私を苛める人だろうか？　この人は私に関わる人だろうか？生きてそこにいるだけが怖くて怖くて――ずっと怖がりながら、人の表情ばかり見て考えて過ごして来たように思います」 「桜……」 　無意識で呼びかけた言葉を、桜は首をゆっくり振ってさえぎった。 「もう怖くありません。私は……」 　――大丈夫ですから 　聞かなくてもわかった。桜は、俺にも遠坂にもそういうだろう。 「……」 　きっと大丈夫なんかじゃない。 　一人じゃ背負いきれなくて、でも一人で背負うしかない重荷を背負って、それでも歩くと決めた時から、桜の生きることが苦行になる時間がが始まった。 　だが、つらくて苦しくて、でも、明日を願って生きるのなら桜はいつか乗り越える。 　一途で頑固で我慢強くて。そういうヤツだと、誰よりが俺が知っている。 　その桜が『決心』したのなら「大丈夫」なのだ。 　ああ、よかった。……桜の顔を見て心から思った。 「……安心した」 　漏れたのは、そんな言葉だった。 「……」 　俺の言葉に桜はまたちょっと微笑んで……それから、ふと薄い月が浮かぶ空を見上げた。 「ここは不思議な場所ですね」 　俺も桜の視線を追うように月を見上げる。 「こんなに寒い夜なのに、ここだけ静かでとても温かくて」 　そうだった。……あの夜も、ここだけは、温かかったような気がする。 「親父が」 　桜は黙って俺の顔に視線を落としている。 「親父がここで逝ったんだ」 　桜は黙っている。肩に当てられていた桜の指がすっと髪に差し込まれるのがわかった。そのまま梳るように桜は指を動かした。やさしくやさしく、弄ぶように愛しむように。それが心地よくて、俺は目を閉じて、体の向きを変えた。 　晧晧と光る月がまぶしかったのかもしれない。いや、月を見ていることが辛かったのかもしれない。 　だから目を逸らすように、顔を背けるように、体の向きを変えた。 　胎児のように背中を丸めて、目を閉じて…… 　その姿勢のまま、呟くように話し始める。 　 　ずっと心に封じてきた、『家族』しか知らない、炎の中の記憶を。 　恐怖も、痛みも、苦しみも、悲しみも、つつみかくすことなく。 　うれしかったこと、つらかったこと、たのしかったこと、ほこらしかったこと、一つ残らず。 　相談するように、告白するように、自白するように、懺悔するように、何もかも全て。 　はじめから、最後まで、俺は一つも省略せずに、桜に語った。 　俺が話している間、桜は何も言わなかった。ただ桜の指はやさしく俺の髪を梳りつづけていた。 　蒼く、白い月が、紗のような光を撒く中で、俺は桜との隙間を埋めるように語り、 　そして…… 「お帰りなさい。　先輩」 　俺がすべてを語り終えた時、桜は小さな声で、そう言ってくれた。 　　 　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　終 　 　 　 　 　 　 　 　 　 　 　 　 　数日後。遠坂邸　――――　居間。 「……」 　ソファに並んで腰掛けている俺と桜の前に、ばたり。と、遠坂が分厚い原稿の束を投げ出した。 　……え？　いや、これはもう、いらないのでは？ 　思わず遠坂をみる。遠坂はひどく追い詰められた表情のまま、まっすぐこっちをみていた。 　沈黙のうちに次の動作を要求している。 「…………」 　まず桜が原稿の束を手にとり、ぱらぱらとめくり始める。 「…………」 　桜の顔色が変わった。引き攣った笑い顔のまま、ひたすらページをめくり、めくり……めくり。 　ぱたり。と原稿の束を閉じて俺の前に、ずい、と送る。 「？」 　怪訝に思いながら、俺は原稿を受け取った……うん。これは俺の一年間の行動調査報告書だ。数日前と変わっているところといえば、報告書的な三人称だったところが主人公の一人称になっていて、 　ん？　……一人称？ 「！」 　読み直す。最初に戻って、あらすじから読み直す……って、なんで報告書に「あらすじ」※４があるんだっ！　 「…………」 　最後にラストシーンが追加されていた。降るような月光の中、ヒロインの膝枕で過去を告白する主人公……。 　こ、これは 　ぱた。と原稿を取り落として、呆然と前を見る。遠坂が難しい顔をして、こちらの反応をうかがっていた。 　こっち。こっち。こっち。こっち。 　居間の振り子時計が時を刻む。秒針がきっちり一周するほどの時間がすぎてから、ぼそりと遠坂が真剣な面持ちで聞いてきた。 「どう？　……売れると思う？」 　 　 　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　こんどこそ　Fin ※１　三代目の泥棒は青い背広にかぎる（偏見） ※２　力道山（りきどーざん　１９２４〜１９６３）　カラテチョップの英霊。その雄姿は戦後間もない日本の人々に勇気を与えた。宝具「カラテチョップ」は空手の手刀ではなく、角界出身の格闘家らしく相撲の張り手がルーツである。 ※３　オプ（調査員・探偵）Ｋ（仮名）　凛の衛宮士郎行動調査報告書（捏造）に出てくる架空の人物なので、作品世界においても存在しない。「日本人と英国人のハーフで本当は考古学志望の人」が思い浮かんだとしてもそれは貴方の気のせいです。コンウォールで「鞘」を発掘したのがこの人で、それで切嗣と知り合いになったりすると、世にも珍しいクロスになるかもしれない。 　誰かかいてくれ。私だけのために。 ※４　応募原稿のはじめに付け、その末尾に郵便番号、住所、氏名（本名）、年齢、略歴、電話番号を明記する。長編募集の大賞応募には必須。だいたい4〜5枚程度。 　応募原稿は百五十枚以上の原稿は通しナンバーを入れてから2〜3冊に分け、丈夫なヒモで右端2か所をとじ、一つの封筒に入れて送るのが望ましい。 　なお、地図・設定書等の添付は自由だが、ほとんどの場合、審査の対象とはならない。 ◆　ストーリー・リスト　◆ 『恋愛小説家・スランプ編』『坂道の途中で〜ぐらっぷらー・トオサカ』『強度試験終了〜やさしい嘘』『春に帰る・天命編』『月光』『恋愛小説家・挑戦編』『注釈』FIN

by 竹屋千楽

　桜さん応援ＳＳとして一編寄せさせていただきます。昔ＨＰにこっそり載せていたものに少し手を加えての投稿です。文中にありますとおり、「ＨＦルートにおける士郎の帰還」がテーマ。このＳＳは実に便利なＳＳで最後を藤ねえにすると藤ねえ応援ＳＳになって、最後を遠坂さんにすると遠坂さん応援ＳＳになるのです。故に実際４種類あったりします。でも、さすがにここで上げるわけには行きませんので今回は封印です（笑　
　竹屋はそれぞれの感情が交錯するＨＦルートが何より好きで、だからその後の桜をヒロインにＳＳを書いていました。そんな私にとってhollowは最高のＦＤでした。晩餐会や下校イベント、プールと来て、最後のあの勇姿には「これだ。これがみたかったんだー」とこぶしを握ったモノです。ありがとうの感謝とともに一位票はもちろん桜さんに。あと一票はＨＦ影のヒロイン黒セイバーへ（笑

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