目の前で悶絶する先輩を見ながら、私は姉さんの言葉を思い出していました。 「中学生かあんたらは」 　テレビからワハハハと笑い声が聞こえました。見るともなしに見ていた午後の情報バラエティ番組でした。障子越しに秋の柔らかな陽がさして、衛宮家の居間は温い空気が充満しています。弓道部が久々のお休みで、のんびりした時間を満喫できます。 「あんたら？」 　私はテーブルの上のお煎餅に手を伸ばしつつ、首を傾げました。藤村先生はお仕事で、先輩とライダーはそれぞれアルバイト。居間には二人きりです。 「あんたと士郎」 　姉さんはフンと鼻を鳴らしてカップを傾けました。海苔のお煎餅に紅茶は合わないと思うのですが、何かこだわりがあるのかもしれません。カップを音を立てずにソーサーの上において、姉さんは私にジトっとした目を向けました。「実際見てられないわよ」 　ワハハハ。バラエティ番組は司会者のトークによって大いに盛り上がっています。 「最近、デートとか行った？」 「……っ」 　お煎餅がのどに詰まって、思わず咳き込みました。あわてて湯飲みの緑茶で流し込みます。ちょっと涙が出ました。 「な、なんですか突然」 「どうなのよ」 「……その、私も弓道部がありましたし、先輩も何かと忙しかったみたいで……」 　なんとなくばつが悪い気がして、うつむきながら答えます。姉さんはハァ、とため息をつきました。 「だから中学生だっていうの。最後に手をつないだのはいつ、キスしたのはいつ、エッチしたのはいつ！？」 「え、えええええ、そ、そのあの」 「それよ。そんなに顔真っ赤にしちゃって、初々しいったらないわ」言われて、私はますます顔が熱を持ったのを自覚します。姉さんはハァアア、と深くため息をつきました。「もうあれからだいぶ経つっていうのに、二人とも奥手すぎるっていうか遠慮してるっていうか。……差し出がましいかもしれないけど、もうちょっと普段からラブラブしていいんじゃない？」 　……姉さんの口からラブラブなんて言葉を聞く日が来るなんて思ってもみませんでした。それはともかく、姉さんの言うことは今まで意識しなかったことでした。私にとっては、先輩のそばにいるだけでも十分、身に余るほどの幸福なのです。「確かに、先輩といつも……ラブラブ……できることなら嬉しいですけど、そんなわがままは……」 「良いじゃないわがままで。アイツは放っといたら老後までお茶すすってるだけで幸せとかいいそうな朴念仁なんだから、あなたが積極的になってちょうど良いくらいよ。それとも」 　姉さんはカエルをにらむヘビのような目をしました。 「変なこと、気にしてるんじゃないでしょうね」 　具体的に言われなくても、「変なこと」が何を指すか、私にはわかりました。わかり過ぎるくらいに、わかりました。 　ざわざわ、ざわざわと、体の奥のほうで何かがうごめく気配がします。そしてキイキイと、責めたてるように、嘲笑うように鳴くのです。 ――殺した ――お前が殺した ――人を、人を人を人を人を ――殺した殺した殺した刺し殺した突き殺した噛み千切って殺した食い殺した嬲り殺した犯し冒し侵し殺した殺した殺した殺した殺した殺した殺した殺した 　私は声のすべてに耳を傾けました。それはすなわち、私の罪でした。私が死んだところで償えるわけではない、私が不幸になれば贖えるわけでもない、罪。何万回謝っても、何百回櫻の季節が来ようとも、許されない罪。今でも時おり私の体中を、さしこまれた針の存在を思い出すかのようにチクチクと痛みつけます。それは私の深いところに刻み込まれているのです。私はその痛みをすべて認めた上で、認めたからこそ、姉さんに向かって笑顔を向けました。 「大丈夫、です。そういうことじゃないです」 　ただ罪の意識に押しつぶされているだけというのは逃げだ、ということを真っ先に誰よりも厳しく、誰よりも優しく教えてくれたのは姉さんでした。だからこそ私は、笑顔ではっきりと答えられます。 「……そう。ならいいわ」 　姉さんはどこか安堵したような表情で、ティーカップを持ち上げました。「いいこと、あなたには思いっきり幸せになる義務があるんだから」 　音もなくソーサーに置かれるカップ。お茶はきれいに飲み干されていました。 「あ、淹れて来ますね」私はポットを持って立ち上がりました。 「ん、ありがと」 　やかんのお湯が少し冷えていたので、ちょっとお水を足して火にかけます。テレビから流れる聞きなれたＣＭソングに合わせて、思わず鼻歌が出ました。 「そういえば今日の夕食当番誰だっけ？」背中に声がかかりました。 「えっと、確か先輩だったかと」 「……それよ！」 　姉さんが大きな声を出したので、私は思わず振り返りました。 「それだから奥手だって言うの。いつまで『先輩』なわけ？　恋人のことをそんなよそよそしい記号で呼ぶのは感心しないわ」 　考えたこともありませんでした。この家に通い始めたときから私にとっての先輩は先輩であり他の誰でもないのです。 「それじゃだめよ」海苔のお煎餅をつまみながら、姉さんは実に嬉しそうなニヤニヤ笑いを浮かべました。「せめて名前で呼んでみない？　ダーリンとまでは言わないから」 「ダ、ダーリン……っ！？」 　お湯が沸騰して、やかんの口からしゅうしゅうと湯気を吐き出していました。 　今日も昨日と同じくぽかぽかと晴れた日でした。日がかげる前に取り入れた布団は秋の清涼な空気とあたたかな日光をいっぱいに吸って、とても寝心地がよさそうでした。 　先輩は縁側にいました。午前中から土蔵にこもってなにやら作業をしていたのですが、一段落したようです。日向ぼっこというと老人のようですが、藤村先生に聞いた話では先輩のお父様がここでくつろぐのがお好きだったそうで、それを受け継いだのだろうということでした。 　さて、私の手にはお盆があります。その上には緑茶の入った湯のみが二つ。その水面は不自然にゆらゆらと揺れ、先輩のほうへ歩く足はなぜか足音を殺そうとゆっくり、ゆっくり近づいてしまうのでした。 　私の頭の中では、昨日の姉さんの言葉が走馬灯のようにリフレインしてぐわんぐわんと頭の中をかき混ぜるのです。 　どう声をかけたものだろう？ 　先輩、お茶をどうぞ……では進歩が無い。 　衛宮君……ただのクラスメイトじゃあるまいし。 　士郎……なんて呼び捨てで呼べない。なんとなくだけど、呼べない。 　あなた……って、どこの熟年夫婦？ 　あだ名では？　エミヤん、エミヤっち、シロー、……全却下。 　ダーリン。なんというか問題外。 　悩んでる間に、先輩のそばまで来ていました。もう後戻りできません。のどかに空を眺める先輩の横顔を見ながら、私はひざを折り、先輩に湯飲みを差し出しました。 「あの、士郎さん。お茶をどうぞ」 「ああ、ありがとう桜」 　笑顔で湯飲みを受け取ってくれました。私も自分の分を持って、隣に腰掛けます。 　ずずー。 　二人分のお茶をすする音が空に掻き消えました。太陽が肌に程よい熱をもたらします。雲がゆっくりと形を変えながら流れるのを背景に、電柱から伸びる電線が空を分割し、ひとつの風景画のように仕立てます。ぶうん、と自動車の通り過ぎる音。風はさわりさわりと控え目に吹き、小鳥がピチチチと鳴きながら横切り、どこかへ去っていきました。 　ずずー。 　ごぷぅ。 　不自然な音が響いて、隣の先輩の口やその他の穴から、緑茶が噴出して大変なことになっていました。 「せ、せんぱっ……士郎さん！？」 「げほ、げほっ……！」 　激しく咳き込みつつも、先輩は大丈夫、というように私に静止の手を上げました。そしてひとつ深呼吸をすると、私の目を見ました。 「さ、桜。いま、なんて」 「え、……その、し、士郎、さん」 　シロウサン……とおうむ返しにつぶやいて、先輩はなにやらあああ、とうなってうずくまりました。私は昨日の姉さんの言葉を思い出します。お互いに、こんなことに過剰反応するようでは中学生なんていわれても仕方ないな、と思うとちょっと情けなくなりました。 「あの……士郎さん、って。駄目ですか？」 　私としてもかなり勇気を振り絞ったのですが、やはり失礼だったのでしょうか。恥ずかしさと不安が混じった思いで先輩を見ます。 「いや、その、そうじゃないんだ……そうじゃないというのがそうじゃないというか……」 　先輩はしどろもどろになりつつ顔を上げました。真っ赤です。 「なんか、こっぱずかしいというか幸せすぎるというか」 　イヤではないんだ、と先輩。ひどいです、そんなのお互い様です。先輩の言葉に、私も釣られて恥ずかしさと幸せさがこみ上げてきて、頭から湯気が出そうになりました。 「あ、ああああのさ、桜」 「は、はいなんでしょうっ」 　お互いに何かをごまかすように、私たちは声を張り上げました。先輩ははにかむように、いま暇？　と言いました。「ちょっと、出かけないか」 「あ、はい大丈夫ですっ。商店街ですか」 「いや、夕飯の買出しとかじゃなくて。遊びに行かないか、新都に」 　ぽりぽりと頬をかくようなしぐさをする先輩に、私は飛び切りの笑顔で返事をしました。 「はいっ先輩！　……あ」 　いつの間にか呼称が元に戻ってしまい、二人でくすくすと笑いました。どうしても長年の癖は抜けきれないのでした。慌てることはありません。これからゆっくりと、慣れていくのだと思います。 「あら、お出かけ？」 　玄関でちょうど姉さんと鉢合わせました。若干顔がニヤついている気がします。何か嬉しいことがあったのでしょうか。 「あ、悪い遠坂。家空けるんだ」 「いいわよ、知らない家でもなし、留守番してるから」 　いつの間にか、姉さんも立派な衛宮家の住人と化していました。「……すまん、頼む」 「ええ、夕飯も冷蔵庫から拝借して適当に食べておくから。時間なんて気にせずにいってらっしゃい」 　姉さんがウインクすると、先輩がなにやら苦笑しました。その反応に、わたしはああ、と気づかされました。 　やっぱり、姉さんにはかなわないなぁ、と。 「いってきます」 　にこやかに手を振る姉さんに見送られて、私たちは戸を開けました。 　すっきりとした青空が、広がりました。

by つくし

滑り込み投稿なので、これから滑り込み投票する人は
これを参考にするといいと思います。

桜支援の支援のつもりですが実は遠坂姉妹支援かも知れません。

TYPE-MOONさんありがとう、
hollowでのシアワセぶりをありがとう。

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