"深夜の山門にて" by 窒素

月が雲に隠れ、柳洞寺はほぼ完全な闇に包まれた。
　時刻は夜十一時。寺からはとうに明かりが消え、辺りが静まってから少し時間がたっている。
　柳洞寺の夜はただでさえ暗い。階段の下を通る道は車通りが少なく、聖杯戦争の影響か不穏な空気が漂う町では、早く明かりを消す家が多くなっているからだ。その上月明かりを奪われれば、常人では五メートル先を見通すこともできない。
　その闇の中、柳洞一成は山門に動く何かを見つけた。一成は視力のわりに夜目が利き、動くものには敏感だった。
　こんな時間に人が訊ねてくるとも思えない。ならば見間違いかと目を凝らすが、確かに闇の中、風で何かがたなびいているのが見えた。
　ゴミがこのような場所まで飛ばされてくることもあるまいから、やはりあれは人だろう。用を足しに起きてきただけとはいえ、来客であるなら出向かねばなるまい。
　幸いと言うべきか、用はもう済ませてある。仮に長話になっても問題はない。
　寝巻きの上に半纏を羽織り、足にはサンダルといういでたちで外に出る。
「もし……」
　門に近づき、その人物に声をかけようとして、一成は息を呑んだ。
　時代錯誤と言うよりない雅な服装。
　長い髪と整った顔立ち。
　柳のようなしなやかさと、刃物のような鋭い雰囲気を持った男――
　しかし彼が息を呑んだのは、そんな外見に驚いたからばかりではない。
　男は、どこか異質だった。
　見た目云々とは別の次元で、どこか自分――否、自分たちとは違っていた。
　言葉にすれば、そう。
　人間ではない、ような――
　男がこちらに気づき、視線を向ける。
「これは……寺の跡取り殿か。はて、起こすような騒ぎをした覚えはなかったが。それともこの刻限、斯様な姿でここに立つのは目に余る所業であったかな」
　ならば申し訳ないことをしたと、男は悪びれもせずに笑った。
「いえ、そういうことでは、その……」
　適当な言葉を探せず、一成は戸惑う。
　男は愉快そうに言った。
「なに、少々月を見ようとここに立っていたまでのこと。数刻の内に消える故、あまり気に召されるな」
　言葉と同時に、雲の合間から月光が漏れる。
　今宵は風が強く、雲の動きが速い。
　月光に照らし出された男の姿は、美しいとも綺麗ともどこか違う。
　あえて言葉で表現すれば、明媚。
　本来人に対して向けられるべきでない麗句は、何故かこの男にぴたりとはまる。そんな気がした。
　とりあえずは中へ招こうと、一成が口を開こうとした、そこに――
「何をしているの、アサシン」
　高く冷たい、女の声が響いた。
「なんとキャスター、見て分からぬか？　この通りお前の命を守っている最中なのだがな」
　アサシン――暗殺者と呼ばれた男は、笑みを崩さずに答えた。
　女――キャスターは不快感と苛立ちを露わにする。
「どこまでも頭の悪い狗だこと。私が聞いているのは何故この坊やがここにいるのかということです」
「そんなことか。彼はただ偶然目が覚め、偶然私に気づいただけだ。そなたの呪(まじな)いは如何せん不出来と見えるな」
　キャスターの気配に明らかな殺気がこもる。
「そう……勝手に消滅するまで生かしておいてあげようと思ったけれど、その必要は無いようね――！」
　キャスターは右手を前に突き出し、何事かを呟いた。
　刹那――
　ばんっ！
　服ごと、男の腹が横一文字に裂けた。
「この国の剣士はそうやって腹を斬って死ぬんですってね。ええ、見た目は悪いし地面も汚れるけれど、潔さだけは認めてあげます」
　嗤う女。
　それに対し、アサシンは血の塊を吐き出しながら、
「……これは驚いた。本気で言っているのなら無学に過ぎるぞキャスター。切腹というのは、身分の高い者にしか許されぬ気高き死なのだからな」
　あくまで、その余裕を見せ付けた。
「……っ！　この、今すぐ私の前から消え去りなさい！」
　キャスターはありったけの魔力を込めて、右腕を大きく振るった。
　ぞぶん、と。
　攻撃はあっさりとアサシンの首を切り落とした。
　ちょうど、介錯のように。
　一成は、腰を抜かすことも忘れて硬直している。
　こつ、こつ。足音。女が歩いてくる。
　男の体が消えていく。服が、腕が、首が、透明になっていくのが分かる。
　五秒を待たず、男の体は痕跡も残さず消滅した。
　飛び散ったはずの血飛沫ももはや無い。
「まったく。こんな時間に起きてくるなんて困った坊やだこと」
　いつの間にかキャスターと呼ばれていた女が目の前にいた。
　それが師の婚約者であると気づく余裕など彼には無い。
　もとより、気づいたところで意味など無かった。
「まあいいでしょう。今日の私は機嫌がいいの。赦してあげるから、すぐに部屋へ戻りなさい」
　再び月が陰る。
　しかし、柳洞寺を満たした闇よりも、一成の意識を侵す闇は深かった。